小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

幸いだ。霊において貧しい者たち

「キリストは罪を犯したことがなく、
 その口には 欺きもなかった。」

 

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:普通Ⅰペテロ2:22

                                  

<幸いだ。霊において貧しい者たち>    マタイ5:1~3

 いよいよ山上の説教が語られます。イエス様は、「幸いだ。心の貧しい者たち」という感嘆のことばを語られました。心の貧しい者は、直訳すると「霊において貧しい者」です。つまり、霊において貧しい者とは、自分が霊的に貧困であることを知っている人の事です。
山上の説教を聴いていた、当時のガリラヤの人々は、大変に困難な生活を強いられながら生きていました。自らの内に、また社会の内に、希望がなかなか見いだせない辛い状況の中で生きていたのです。
エス様は、そのような苦しみや辛さを抱えて今日を生きる者たち、それでも懸命に希望の光を見出そうとしている一人ひとりに対して、励ましと恵みの宣言として「なんと幸いなことよ」と言われたのです。「霊において貧しい者は幸いである」その理由をイエス様は次のように教えています。「天の御国はその人たちのものだからです。」天の御国とは、御国の王であるイエス様のご支配されている所の事です。イエス様を信じた人の心にすでに天の御国があるのです。自分の心の王座にイエス様を迎える時、その人の心は平安で満たされます。どんな状況に置かれていても、すべてを創造され、今もすべ治められる主が共にいてくださることを覚える時、この世の事に対するあらゆる思い煩いは平安へと変えられます。自分の心の王座に主を迎えた人には、平安が訪れるのです。 
 確かに、天の御国は、私たちの手の届かないところにあるのではありません。イエス様が「霊のへりくだり」「低きところ」へと私たちのまなざしを向けさせるのは、神の国が、私たちを超えたはるか「高い」ところではなく、むしろ、「低き」ところにあり、恵みも「低きところ」に注がれるからです。この低きところに立ち帰ろうとする人の「幸い」を、イエス様はお語りになっています。
目に見えるものや、今あなたがたが手にしているものは、いつか必ず失われる時が来ます。失われる物を心の拠り所にすることをやめ、永遠に変わることのない確かなお方、イエス様ご自身に目を向けなさいと、「霊の貧しさを知り、わたしに頼る者になるように」と優しく声をかけてくださるのです。
 自分は本当に罪深い、貧しい者だとつくづく知り、「ただ神様により頼むしかない」と心へりくだる人は、そのままの姿で幸いだと主は言われます。なぜなら、神様ご自身が、私たちの貧しいところに恵みを一杯満たしてくださり、私たちの心と霊を、イエス様の愛と平和によるご支配、御国の到来に与らせて下さるからです。 主のあわれみにゆえに霊において貧しい者とされた幸いを神に感謝します。