小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

天の御国が近づいたから

「隠れたところにおられる 
 あなたの父に祈りなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ6:6

 

<天の御国が近づいたから>    マタイ4:12~17

 マタイは、イエス様の宣教開始をバプテスマのヨハネの投獄の知らせと関係づけて記しています。イエス様にとってバプテスマのヨハネは、親戚であり、半年しか年の差の違わない身近な存在でした。イエス様にとってそのヨハネの投獄は、悲しい知らせだったはずです。そして、同時にいよいよ自分もメシヤとしてご自身に与えられた使命を成し遂げるために立ち上がる時が近づいたことを自覚されたのです。
 イエス様が宣教の本拠地に選ばれたカペナウムは、堕落し腐敗している町でした。イエス様は、罪人の集まる闇の中に、死の陰の地に住む人々の所に来てくださり、彼らの本当の姿を明らかにし始められたのです。そして、イエス様は、宣教の第一声を発せられたのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」悔い改めるとは、方向転換を意味する言葉です。神様に背を向けて生きることをやめ、神様の方へ向きを変え、神様が用意してくださった福音を受け入れることです。福音は、十字架に架かって罪を贖ってくださったイエス様を信じることです。そして、イエス様が望んでおられることは、罪を赦された者たちが罪の力から解放され、神の子として天に国籍を移された者としてまことの神様だけを礼拝することにより、神様に栄光を帰する者になることです。


しかし、イエス様は、人々に拒まれ、殺され死んで3日目によみがえられ、福音宣教を弟子たちにゆだねられたのです。弟子たちは迫害を受けましたがその逆境を乗り越え、海を渡り、文字通り地の果てまでも福音が伝えられたのです。全人類が福音を聞く時が近づいています。その意味で、世の終わりは確実に近づいているのです。手遅れになる前に、私たちに出来ることがあるはずです。あなたでなければ伝えられない人々がいます。
それでも、人間は、実に弱い存在です。顕微鏡でしか見ることのできない小さなウイルスに怯え、未来に対する希望を失いかねない無力な存在です。しかし、私たちは、そのような逆境の中にあっても希望を失うことがありません。それは、私たちのいのちは、天の父なる神様の御手の中にあり、神様がすべてを最善と変え、益としてくださるお方であられることを信じているからです。イエス様にお会いするその時の備えが出来ているでしょうか。イエス様は、次のように宣言されたのです。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」

 

神の包括的な救済ご意志

「信じない者ではなく、
 信じる者になりなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ20:27

 

<神の包括的な救済ご意志>    Ⅰテモテ2:5~17

 テモテへの手紙に見られる祈りの特徴は、すべてという言葉です。
2章の1節から7節の間に5回もすべてという言葉が出てきます。この祈りの中にすべてという言葉が沢山使われていることからパウロが包括的な神の救済ご意志を意識していたことが分かります。そして、キリストがお語りになられた言葉や行いを通しても、天の父なる神が人類の救いを望んでおられる事を知ることができます。
 キリストは、誰に対しても平等に愛を示されたお方です。キリストは、相手が誰であっても、律法の教師であっても、ユダヤ最高議会の議員であっても、取税人や遊女であっても、同じように真摯に相手と向き合い、彼らに福音の真理を解き明かされたのです。私たちは、キリストを通して神の救済ご意志を知ることができるのです。また、ヨナ書からも神の救済ご意志を知ることができます。預言者のヨナは、神からニネベの町に行き、神の裁きの警告をし、彼らに悔い改めを迫るようにと命じられます。ヨナは、神の命令に背きます。なぜなら、ニネベはイスラエルの敵国だったからです。ヨナは、敵であるニネベの町の人々は滅びてしまった方が良いと本気で考えていました。しかし、敵対する国の人々であっても、神には、滅んで欲しくない大切な人々だったのです。
 パウロも神の救済意志を体験していました。なぜなら、パウロは、キリスト者たちを迫害しキリスト者たちのいのちを奪っている人だったからです。パウロは、よみがえられたキリストに出会い、自分の罪を示され、キリストから与えられた新しい使命のために自分のいのちを捧げよう。自分のために身代わりとなって罪を贖ってくださったキリストのために生きる者になろうと彼は方向転換を決断したのです。
 悔い改めとは、神に背を向けて生きていたところから神の方に向きを変え、神の望まれる道を神の導きに従って生きることを意味しています。日本には、まだ、福音を聞いたことがなく、神に背を向けて自分勝手に生きている人々が沢山います。彼らの救いを一番望んでおられるお方は、天の父なる神です。その父なる神のご意志を知らされた者として、人々の救いに必要な福音を届ける器として、私たちは召された一人一人です。最低、週に一度は共に礼拝をおささげし、みことばにきき、キリストから派遣されて、それぞれの持ち場立場に行き、そこで神がどれほど人間を愛してやまないお方であられるか。証する者になろうではありませんか。

 

死から永遠のいのちへ

「わたしはよみがえりです。いのちです。」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ11:25

 

<死から永遠のいのちへ>    ヨハネ11:1~27

 私たちは、例外なく、神様を信じている信じていないに関係なく、それぞれがどのように地上で生きてきたか。申し開きをする時が来ます。その時の備えができているでしょうか。
 キリスト教の葬儀は、希望に満ちています。確かに、愛する人との別れは、寂しいものです。辛いことです。しかし、私たちは、死んで終わりではなく、死後の世界があることを知っています。イエス様は、私たちより先に天国に帰られ、私たちの為に住まいを備えてくださっています。ヨハネ14:1~3参照。
ですから。クリスチャンは、死を恐れません。死の先に永遠に天国でイエス様と共に過ごす日が約束されているからです。救われる以前、死はのろいでしたが、救いに与ることにより、死は天国の入口に変えられています。兄弟の死を悲しんでいたマルタにイエス様は、次のようにおっしゃられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」なんという希望に満ちたイエス様の宣言ではないでしょうか。イエス様は、わたしはよみがえるとおっしゃられたのではなく、よみがえりそのものであるとおっしゃられたのです。
 イエス様は、いのちそのものであられるともおっしゃられます。イエス様は、この世界を無から創造されたお方です。一度死んだ人間をよみがえらせることなど簡単な事なのです。イエス様は、死んで葬られたラザロを眠りから覚ましに行くと弟子たちにおっしゃられたのです。イエス様にとって死は恐れるべき対象ではなくなり、死は一時的な眠りに過ぎません。イエス様を信じるならば誰でも希望に満ちた人生を送ることが可能となります。ですから、私たちは、主が再び来られる再臨の日に向かって今、自分にできる最高の礼拝を全身全霊で捧げさせていただこうではありませんか。後、何回、一緒に地上で礼拝を捧げることができるか分かりません。一回、一回の礼拝は、二度と戻ることのない掛け替えのない大切な時間です。
 私たちは、滅びに向かって歩む者から永遠のいのちへ向かって歩む者に移された者たちです。この希望に満ちた福音を家族や友人や知人にどう伝えたら良いのでしょうか。主から知恵と力と勇気と信仰をいただいていのちの君であられるイエス様の素晴らしさを伝える者に変えられたいと願います。