小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

みこころが行われますように

「わたしの計画は成就し、

わたしの望むことを すべて成し遂げる。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  イザヤ46:10

                                  

<みこころが行われますように>      マタイ6:10後半

 イエス様は、弟子たちに教えられた「主の祈り」において、最初に、驚くほど親しく「父よ」と呼びかけるよう教え、第一に「御名が聖なるものとされること、崇められること」、次に「御国が来ること」を祈るよう教え、それに続いて「みこころが行われるように」と祈ることを教えられました。

 神様のみこころは、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは違っていたり、私たちにとっては、苦しみや悲しみと感じられることである場合が多々あります。私たちは、その苦しみの中で、自分に対する神様の恵みの御心があるということを忘れ、見失い、苦しみの時に、神様のみこころはどこにあるのかと、迷いの淵に立つようなこともあるでしょう。

  しかし、そのような時こそ、イエス様の祈りに目を向け、どのような事であっても、最終的に実現していくのは、神様のみこころだけであることを覚えたいと思います。

 神様の「みこころ」を求め「みこころが行われること」を求める時 、わたしたちは苦しみます。「わたしたちの意志ではなく、神様のみこころが行われますように」と祈っていくことは、「自分自身の思いを捨てる」という戦いが起こり、苦しみに耐える忍耐と、自分の古い意志との戦いを伴います。イエス様は、その祈りの戦いを私たちに先立って戦って下さり、神様のみこころに従うために起こる苦しみを、先立って味わってくださいました。 すべての人の罪を負って、十字架につけられ死ぬことは、イエス様にとっても耐え難い苦しみだったのです。その苦しみの中で、イエス様は、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と天の父なる神様に祈られました。自己中心な私たちが、「みこころが行われますように」と祈り、父なる神様のみこころを行なう者になっていくことができるのは、イエス様の祈りにならうことによってです。

天の父なる神様が、この私に与えてくださっているご計画が、私の生涯において実現するために、たとえどのようなところを通らされたとしても、「あなたのみこころに従います」と自らを天の父なる神様にゆだねること、それが、「みこころが行われますように」との祈りです。

先に福音を聞いた者として、すべての造られた者がまことの神様だけを崇める者となることを心から願い、信じて福音を宣べ伝え、イエス様が再び地上に来てくださる日を、心から待ち望む者でありたいと願います。

神の限りない愛 後編

「主は私たちの王、

この方が私たちを救われる。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  イザヤ33:22

                                  

<神の限りない愛 後編>       ルカ15:25~32 

  「人の子は、失われた者を捜して救うために来たのです。」とイエス様は言われました。そのためにこそ、すべてを捨てて、この地上に生まれて下さった…天の父なる神様が、御子イエス様を地上に送って下さったことにより、罪のために失われていた、人間と父なる神様との霊的な交わりが回復される道が開かれた…それがクリスマスです。

 イエス様の譬えに登場する兄息子は、父のもとに居ながら愛されている自覚を持たず、父から心離れていたために、父にとっては、遠い国に出て行った弟息子と同じように、失われた者でした。それは、父なる神様の愛を知り、その愛の内を生かされながらも、その広く深い大きな愛を信じ切ることの出来ない、霊的な意味で失われた者となっている私たちの姿でもあります。

 イエス様は、そんな私たちを捜して救うために、この地上に来て下さったお方です。あなたを見つけ、捜し出して下さる天の父なる神様の愛は、無限に赦す愛であり、人間の常識や理解を遥かに超えた、あり得ないほど大きな愛です。その愛で、あなたの存在すべてを愛し、すべての罪を赦して下さる父なる神様は、

「子よ、おまえはいつも私と一緒にいる。私のものは全部お前のものだ。だが、おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」と言って、弟の帰りを祝う喜びの祝宴に招いて下さり、両腕を広げて待っていて下さいます。

   自分の罪に気付かず、愛を受け取ろうともしない兄息子に、忍耐強い深い愛をもって向き合ってくれた父のように、私の頑なな心を溶かし、素直にイエス様に愛されていることを喜べる者となるのを待っていて下さる父なる神様は、あなたとの霊的な交わりが回復するのを何より望んでおられるのです。

 今日は、救い主のご降誕をお祝いする特別な日です。このイエス様のお誕生にあらわされた、父なる神様の限りない愛を、感謝して受け取り、ハレルヤと叫びながら、父なる神様のもとに帰ることを共に喜びましょう。

 

神の限りない愛 前編

「今日ダビデの町で、

 あなたがたのために救い主がお生まれになりました。
   この方こそ主キリストです。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ルカ2:11

                                  

<神の限りない愛 前編>       ルカ15:11~24 

  今年のアドベントは、これまで2週、ルカの福音書15章の譬えから、失われた者に対する神の愛について、みことばにきいてまいりました。迷える羊を捜す羊飼いの譬え、無くなった銀貨を捜す女の人の譬えに続き、3週目の今日は「放蕩息子の譬え」を通して、弟息子の帰りを待ち望む父の姿にあらわされた、父なる神様の限りない愛についてみことばにきいてまいりましょう。

 父の元を飛び出して、一人で生きていくと豪語した弟息子も、やはり父が与えてくれた財産なしには生きられません。生きるのに必要なすべてのものを与えて下さった方のことを思わずに、感謝もせず、すべて自分のものであるかのように思い込んで、好き勝手に歩んでいる…そのような私たちの姿と、この弟息子の姿が重なります。神様のもとを離れた人間は、本来頼るべきお方を失っているので、それに代わる何かに依存して生きるようになります。それは、神様と共に生きる時に与えられる平安がないため、何をしていても心に満たされないものがあり、罪責感があり、空しさが満ちているためです。ある人は金銭、ある人は仕事、ある人はお酒やギャンブルによって、その空しさを誤魔化し、埋め合わせようとすればするほど、何かしらの奴隷となって、罪に束縛され、ますます平安を失う…事実、まことの平安は、天の父なる神様のもとに立ち帰った時に、はじめて与えられる特別なものなのです。

 すべての人間は、生まれながらに罪をもち、霊的な意味で天の父なる神様との交わりが断たれた状態でこの地上に誕生します。それは、肉体は生きていても魂は死んだ状態と同じです。けれども、イエス様を自分の救い主として信じ、自分の心の王座にお迎えするなら、あなたと父なる神様との霊的な交わりが回復され、あなたの人生は全く新しいものに変えられます。そして、闇の中ではなく、光の中を平安のうちに天の父なる神様と共に永遠に生き続ける者とされ、神の子としての歩みが始まるのです。

父なる神様は、あなたのことを、あなたがそのままの姿で御元へと帰ってくることを待ち続けて下さっています。そして、私たちを愛し、ただ罪を赦してくださるだけでなく、神の子どもとされる特権をも与えてくださるのです。イエス様を信じるなら、今日からあなたは神の子とされ、父なる神様の無限の愛を体験する者となり、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったことを大いに喜んで下さる、愛にあふれた父なる神様との親しい交わりが始まります。是非、この祝福を受け取ってください。