小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

真の信仰に至るまで

「あなたがたは行って、

 あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ28:19

                                  

<真の信仰に至るまで>     ルカ24:13~35

 今、クリスチャンとして歩んでいる一人一人も、最初から聖書に書かれてあることがすべて理解できたわけではありませんでした。聖書を読み、礼拝に集い、みことばの説き明かしを聞き続ける中で、だんだんと聖書が教えていることの理解が深められてきたのです。
 信仰の知識は「自分なりに」努力して得られるものではありません。イエス様が二人の弟子に、「ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた」とあるように、聖霊に導かれた聖書の説き明かしを聴く必要があるのです。みことばが説き明かされること、イエス様との交わりと聖霊の助けがあって初めて、私たちは本当の意味で、救い主なるイエス様、死からよみがえって今も生きておられるイエス様、とこしえまでも共におられるイエス様を信じることができるのです。

 人間の知識や経験で理解しようとすると、かえって分からなくなってしまうのは、イエス様が、人間の知識や経験をはるかに超えたお方だからです。 復活の主を信じて生きるため、真の信仰に至るためには、一人一人、エマオへの道のりが必要なのです。イエス様が共に歩いて下さるエマオへの道のりは、みことばの説き明かしと、イエス様との交わりによって導かれ、はじめは失望や疑いに閉ざされた目が、確かな希望への確信に開かれるという恵みに満ちた道のりであり、私たちが向きを変えて、イエス様の元へと立ち返る歩みです。それは、とりもなおさず、私たち一人一人が「真の信仰に至るまで」の道のりです。

 教会の礼拝に集い、みことばの説き明かしを聞き続けていくなら、聖書が伝えるイエス・キリスト、今も生きておられる救い主イエス様が、必ず分かるときが来ます。それは、イエス様が、今から2000年前の人々だけでなく、今も私たちのところへ、求める者のところへ、ご自分から足を運んで出会ってくださり、共に歩んで導いて下さるため、イエス様が送られた聖霊が、語られるみことばと共に働いてくださるためです。
 私たちがイエス様と共にいること、イエス様のみことばに聞き、イエス様との交わりの中にいることが大切なのです。今日、イエス様との交わりは、イエス様が与えてくださる助け主、聖霊様によって持つことが出来ます。

 真理を求める旅は、まだ始まったばかりです。どうぞ、永遠のいのちに至る道があなたのために備えられていることを信じて、共に歩み続けようではありませんか。イエス様は、あなたが求めるならばご自身の予定を変更し、同じ宿に泊まってくださるほど優しいお方です。そして、あなたが真の信仰に至るまで、聖書から真理のみことばを語り、導いてくださいます。イエス様は、命をかけて愛し、今も生きて共におられる、あなたの救い主だからです。


          

狭い門から入りなさい

「しっかりしなさい。わたしだ。

 恐れることはない。 」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ14:27

                                  

<狭い門から入りなさい>   マタイ7:13~14

 

 イエス様は、信仰のゆえに迫害された時、その人が受ける報いについて次のように教えています。「わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。喜びなさい。大いに喜びなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」マタイ5:11~12                           

私たちが救われる以前と同じようにまことの神さまを信じない人々と同じように生活をしていれば迫害されることはありません。多くの人が選択するのは、迫害されない広い道です。

しかし、イエス様を信じ、イエス様に従うことを選び取ることは、狭い門を通り、細い道を歩むこと、それは、いのちを選び取る道、天の御国に通じる道なのです。イエス様は言われました。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」ヨハネ14:6

抱えているものを手放さなければ通れない狭い門を通り、決して見栄えのよい道でもなく、楽な道でもない道を歩いていく…けれども、この道こそ、永遠のいのち、天の御国に至る道であり、イエス様が先立って導き、イエス様と共に歩む道なのです。この狭い門、細い道は、単に苦労の多い困難な道というのではありません。

天の御国に至る道そのものであるお方が、共に歩いて導いて下さる、決して迷うことのない一本道。どこへ向かっているのかを見上げる時、希望と平安、感謝と喜びに溢れた道なのです。

エス様が示された狭い門は、誰も通ったことのない門ではありません。私たちの信仰の先輩たちがすでに通った門です。そして、何よりイエス様ご自身が十字架に架かることにより、天の父なる神さまに従い通され、狭い門から天の御国に入り、困難に満ちた細い道を通られ、天に凱旋さたのです。

エス様のそのお姿に倣い、イエス様のために迫害されたことを喜んだ弟子たちに倣い、主と同じ苦しみに与ることができる特権を与えられたことを感謝して、イエス様の歩まれた、いのちに至る道、天国に通じる道を共に歩んでまいりましょう。

 

人生は礼拝

「愛する者たち。

私たちは互いに愛し合いましょう。

愛は神から出ているのです。 」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰヨハネ4:7

                                  

<人生は礼拝>    ローマ12:1~2

 

 神は、罪の中にあって永遠のゲヘナで滅ぶべき私たちを愛して、御子イエスの完全なご生涯と十字架と復活を根拠として義と宣言し、御国に招いてくださいました。

だから私たちは「からだを」つまり人生をまるごと神にささげて生きるべきです。主日だけでなく、残りの6日間も主にささげて生きるのです。十分の一だけでなく、手元の十分の九も主のみ旨にかなう用い方をして生きるのです。生活の全領域において神をあがめて生きるのです。あなたの生活のなかで、まだ神におゆだねしていないところはないでしょうか。イエス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主となることを望まれるのです。主にささげるのは「聖なる生きたささげ物」としてのあなたの人生です。

 旧約時代、神に対する捧げものは必ず血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。ところが「あなたがたのからだを・・・聖なる生きたささげ物としてささげなさい」といわれています。それはこのささげ物は、罪の償いのための犠牲ではなく、感謝のささげものだからです。神の御子イエスが、私たちの罪の身代わりの犠牲となって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。だから、私たちは自分の罪滅ぼしのために生きる必要はありません。そうではなく、「こんな罪人が赦された!」という神への感謝にあふれて、自分の全生活を主におささげするのです。

これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の生活の原理です。

 「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とは、「あなたがたのなすべき礼拝」「理にかなった礼拝」という意味です。何が理にかなっているかというと、まず神が創造主であって私たちはその作品であるからです。作品が創造主にお仕えするのは当然でしょう。

 次に神の御子キリストがあなたのために命まで惜しまなかった救い主だからです。命の恩人に感謝して生きるのは人として当然のことでしょう。理にかなった礼拝者として、生活の全領域で神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるためには、まず、悪魔が支配する「この世」と調子を合わせないで、「心(ヌース:むしろ頭)の一新によって自分を変えていただく」ことです。人は考えているように生きるものですから、聖書のみことばと教理をきちんと理解し、蓄えることが肝心です。そうしていれば、私たちの生活全体が、神への礼拝とされていきます。