小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

教会の使命

「人々はその教えに驚いた。 
 そのことばに権威があったからである。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通ルカ4:32

 

<教会の使命>    Ⅰテモテ3:14~16

 パウロは、教会が神のお建てになった生ける神の家だと教えています。Ⅰコリント3:16~17参。パウロは、コリントの教会員たちに、あなたがたは神の宮であると教えています。神の宮は、神の家と言い換えることができます。キリストを主(神)と告白するキリスト者たちの群れが聖霊の臨在される神の宮であり、神の家なのです。罪人である私たちの群れの中に、聖なるお方が共に居てくださるとは信じ難いことです。確かに私たちは日々、神の御前に罪を犯し続けている者たちですが、同時にその犯した罪を日々、神の御前に言い表すことにより、その罪を赦され、御前に出て礼拝をお捧げできる恵みを覚える時、感謝し尽くすことのできない喜びに満たされます。そして、この光栄に与った者として、自分の成すべき事を忠実に誠実に果たさなければならないと心、奮い立たされるのです。
 私たちが成すべき事は、教会を聖なる所となし続ける事です。また、パウロは、神の家である教会が真理の柱と土台であると教えています。柱は、建物にとって重要な部分です。二階建ての建物であるならば二階の家屋を支え、建物が崩壊しない為に大工さんは丈夫な木を柱に選ぶはずです。しかし、場所によっては一種の飾りとして美的効果を兼ねている柱もあります。日本式の家屋だと床柱などが、後者に当てはまります。その場合、柱は、支える役目も果たしていますが、同時に外観も重要です。その事を念頭において、地上の教会を見る時、教会はキリストの真理を人々に見せる場であるという事ができます。つまり、教会が証の場であり、同時に聖書が示す真理を崩されないように守る所でもあると言えるのです。
 二千年前の教会もそれぞれに問題を抱えていました。分派間の争い、偽教師の存在、異端や信仰から人々を引き離そうと働きかけるものから、教会はキリスト教の真理(Ⅰテモテ3:16参)を守らなければならなかったのです。それは私たちも同じです。教会の使命は、キリストがまことの救い主であられることを私たちの生き方を通して世に証し続けることです。聖書が啓示する真理を曲げることなく、そのまま伝え続け、みことばの力によって、人々が救いに導かれるのを信じ期待しとりなし祈り続けることです。
教会へ来た人々がここに確かに主(神)がおられると、この世界を創造されたお方が確かにここにおられると確信できるような礼拝を捧げ続ける群れでありたいと願います。それが教会の使命です。

 

奉仕者の報い

「人は、新しく生まれなければ、 
 神の国を見ることはできません。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通ヨハネ3:3

 

<奉仕者の報い>    Ⅰテモテ3:8~16

 教会には、いろいろな奉仕があります。キリスト者の一番の奉仕は、礼拝を捧げることですがその為には沢山の奉仕者が必要です。説教、受付、司会、奏楽、CS、感謝祈祷、献金集計、会堂清掃などがあります。どれも大切な奉仕です。今朝は、教会で奉仕する人がいただくことができる報いについて共にみことばにきいてまいりましょう。
 初代教会は、短期間のうちにキリスト者が増えた為、使徒たちだけでは、いろいろな事に対応しきれずに配給の奉仕を専門に担う執事が7人選ばれます。エペソの教会の場合、監督職と共に執事職が定められ、教会の働きが組織的に行われていました。同盟教団には、執事という職名はありませんが教会で長年忠実に奉仕してきた人が執事に置き換えられるでしょう。実は、教会で奉仕できるという事は、キリスト者に与えられた特権であり、キリスト者の霊は、神との日々の交わりを通して成長していきます。奉仕の資格は、その人が洗礼を受けていることです。どんなに優れた能力をもつ人が教会に居ても、洗礼を受けていない人は奉仕できません。それは奉仕が人に対するものではなく、神に対するものであり、神に栄光を帰するものだからです。そして、何より神は、喜んで奉仕する人を求めておられるのです。
 では、奉仕者の喜びはどこから来るのでしょうか。それは、その人が神に愛されていることを知ることによって生じてくるものです。神は、一番大切なものを私たちのために惜しみなく犠牲になさったお方です。一番大切な者、それが神のひとり子であられるキリストです。神は罪のないキリストを罪人である私たちの身代わりに十字架でその罪の罰を処理してくださることにより、私たちが救われる道を用意してくださったのです。十字架のキリストを主と仰ぎ見る者は誰でも救っていただけます。例外はありません。十字架に現わされた神の愛を知った人は愛してくださった神に仕えたいという願いが与えられるのです。そして、喜んで仕える人は、奉仕を通して、神の助けと恵み深さをいよいよ豊かに味わうことができるのです。これに勝る報いはありません。神から与えられる信仰により、キリストとの充実した交わりにあなたも招かれています。是非、聖書を読んでください。そして、神の愛を知ってください。神の与えてくださる報いはあなたが体験したことのない喜びと感動に満ちたものなのです。


「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに世(全人類)を愛された。それは、御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16

聖霊を通して注がれる神の愛

聖霊があなたがたの上に臨むとき、 
 あなたがたは力を受けます。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通使徒1:8

 

<聖霊を通して注がれる神の愛>    ローマ5:1~

 私たちは、何か困難な事に直面すると、神の愛を疑いたくなる衝動にかられます。神が人間を愛しておられるのなら、どうして、人間にとって災いとなることが次から次へと起こるのだろうか。私たちも、救われる以前ならそう考えたはずです。しかし、救いに与り、信仰を与えられ、いくつもの試練を経験することで、考え方が変えられています。パウロも変えられた人の一人です。 
 では、パウロは、苦難を通し何を確信することになったのでしょうか。私たちは、なかなか信仰のみによる救いという聖書が教える救いの条件を受け入れることができません。それは、救われるためには、「人間の行いが必要だ」と考えているからです。しかし、それほど高慢な態度はありません。何度も言ってきたことですがもし割礼が救われるために必要であると主張するならば、それはイエス様の十字架の犠牲だけでは不十分であると主張することになるのです。イエス様の犠牲の血は、過去・現在・未来の全人類の罪を完全に贖うことができるものなのです。私たちは、多くの試みを体験し、自分の罪深さを知る事が出来る者に変えられます。自分を義とする高慢な心が試練の中で取り扱われ、少しずつ砕かれ、謙遜に純粋に自分の救いが100パーセント信仰のみによるものであることを確信できる者に変えられます。
 神の愛は、ご自身の愛する独り子を罪人(全人類)の身代わりに十字架につけ罪の問題を処理されたことに現われています。誰でも十字架のイエス様を主として仰ぎ見るなら罪を赦され、救われるのです。神からいのちがけの愛をいただいた者として、その愛に応答し、私たちもいのちがけで愛してくださったイエス様と共に生きることを決断し続けようではありませんか。
 世にあってキリスト者の苦難は尽きません。しかし、必ず、終わりの時が来ます。その時、今より少しでも霊的に成長した姿をイエス様に見ていただくことができるように聖霊様に満たされ続け、みこころに従うことができる者に造り変えてくださいと日々、祈り求める者になりたいと願います。 
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:5
「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに世(全人類)を愛された。それは、御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16