御国の民として
「わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、
罪人を招いて悔い改めさせるためです。」
ルカ5:32
<御国の民として> マタイ7:12
御霊に満たされて隣人を愛するとは、具体的にはどうすることなのでしょうか。その事を思い巡らす時、殉教したステパノの姿が思い出されます。ステパノの心は、御霊様に支配されていたのです。だからこそ、自分に対して敵意を抱き、殺意をもって石を投げる人々の救いのために執り成し祈ることができたのです。それは、ステパノが御霊様に自分の心の王座に着いて頂き、イエス様の愛を頂いて、隣人を愛していたからです。ステパノは、イエス様の十字架の祈りを知っていたのでしょう。
イエス様は、ステパノより前に、十字架の上で、愛の極みを示されました。「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」私たちは、十字架のイエス様こそが本当の意味で律法を全うし、命をかけてすべての人を愛されたお方であると信じています。これは本当に、神の愛であるところの奇蹟としか言いようのないことです。また、敵を愛するステパノの姿、十字架のイエス様の執り成しの祈りに思い出される宣教師たちがいます。以前にも、お話したことがありますが、ジャングルの奥地に住む首狩り族に福音を伝えた5人の宣教師とその家族です。彼らは、イエス様が隣人を愛されたように首狩り族の人々を愛し、彼らの友となるために命を犠牲にしました。「ビティ・ミティ・プーニムーパー」「私はあなたが好きです。あなたと友達になりたい」と最後まで言い続けながら、福音を伝えた宣教師たちの心も、確かにイエス様の愛と御霊で満たされていました。
私たちは、イエス様のお姿にならったステパノや宣教師たちのように、自分の命をかけてまで隣人を愛することなどできないと思うかもしれません。しかし、イエス様の十字架によって罪赦され、神の子として生きる一人の人間であることに、何ら変わりはないのです。私たちはみな、土の器です。空っぽの、欠けだらけの器なのです。そこに神様が無限に注いで下さる愛と御霊で満たされて、溢れるばかりになる時、私たちも、もっと深く、隣人を愛することができるようになるのです。なぜなら、私たちもすでに神の子どもとされているからです。天の父なる神様が、私たちを子として愛して下さり、養い、導いていて下さる、その歩みの中で、神様を愛し、隣人を愛する御国の民としての新しい生き方が示されました。私たちが、イエス様の愛と御霊で満たされて、精一杯、隣人を愛する小さな愛の業一つ一つが、神様に喜ばれるものとなり、主の愛と福音を運ぶ器として用いて頂けるよう、心から祈ります。