小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

まことの王

「キリストは、すべての人の贖いの代価として、

 ご自分を与えてくださいました。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰテモテ2:6

                                  

<まことの王>     マタイ27:27~44

 イエス様はいのちをかけて愛した人々からののしられ続けました。

 「他人は救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

エス様は、十字架から降りることができなかったのではなく、降りることができたにも関わらず、ご自身の意志で天の父なる神様のご計画に従って人間が受けるべき罪の罰をすべて受けられることを選択なさったのです。 ここに、イエス様のまことの王であるお姿があります。イエス様は、私たちを罪の力から解放し、救い出すために来てくださった「まことの王」です。
 十字架の死は、人間にとって敗北であり愚かなことです。誇り高いユダヤ人にとっては、不名誉な事であり、蔑みの対象以外の何ものでもありません。 しかし、イエス様は十字架の死においても、父なる神様への信頼を失うことはありませんでした。御国の王として、御国に生きる者のあるべき姿を示されたのです。

天の父なる神様が人類を救うためにご計画されたのは、十字架にかけられたイエス様を仰ぎ見る者を救うことでした。ちょうど、モーセが作った青銅の蛇を仰ぎ見たイスラエルの民が救われたように、十字架のイエス様をまことの王として仰ぎ見る者は救われるのです。これは、人間の常識を超えた救いのご計画です。
なぜなら、十字架にかけられた者は、神に見捨てられたもの呪われた者であると人々は信じていたからです。そして、実際にイエス様は、神に見捨てられた者、のろわれた者となり、私たちの背きの罪の罰を一身に受けられました。それ故に、私たちは、本来受けるべき罪の罰を受けずに救いに与ることができるのです。

 イエス様を罵った群衆も、祭司長たちも、ローマ兵も、犯罪人も、私たちも神様の御前には同じ罪人です。天の父なる神様を無視し、神の御子を無視し、自分勝手に自分の生きたいように生きてきた者たちです。しかし、私たちは十字架の主を神の御子であると信じる信仰を与えられ、自分の罪のためにイエス様が身代わりとなって、その罪の罰を受けてくださったことを信じ、死んで三日目によみがえり、今も生きておられるイエス様の弟子として生きていく者に変えられたのです。

 日々、天の父なる神様との交わりの中で示されるみことばに従って生きることができるようにこれからも主に祈り求めてまいりましょう。