人生は礼拝
「愛する者たち。
私たちは互いに愛し合いましょう。
愛は神から出ているのです。 」
Ⅰヨハネ4:7
<人生は礼拝> ローマ12:1~2
神は、罪の中にあって永遠のゲヘナで滅ぶべき私たちを愛して、御子イエスの完全なご生涯と十字架と復活を根拠として義と宣言し、御国に招いてくださいました。
だから私たちは「からだを」つまり人生をまるごと神にささげて生きるべきです。主日だけでなく、残りの6日間も主にささげて生きるのです。十分の一だけでなく、手元の十分の九も主のみ旨にかなう用い方をして生きるのです。生活の全領域において神をあがめて生きるのです。あなたの生活のなかで、まだ神におゆだねしていないところはないでしょうか。イエス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主となることを望まれるのです。主にささげるのは「聖なる生きたささげ物」としてのあなたの人生です。
旧約時代、神に対する捧げものは必ず血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。ところが「あなたがたのからだを・・・聖なる生きたささげ物としてささげなさい」といわれています。それはこのささげ物は、罪の償いのための犠牲ではなく、感謝のささげものだからです。神の御子イエスが、私たちの罪の身代わりの犠牲となって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。だから、私たちは自分の罪滅ぼしのために生きる必要はありません。そうではなく、「こんな罪人が赦された!」という神への感謝にあふれて、自分の全生活を主におささげするのです。
これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の生活の原理です。
「それこそ、あなたがたにふさわしい礼拝です。」とは、「あなたがたのなすべき礼拝」「理にかなった礼拝」という意味です。何が理にかなっているかというと、まず神が創造主であって私たちはその作品であるからです。作品が創造主にお仕えするのは当然でしょう。
次に神の御子キリストがあなたのために命まで惜しまなかった救い主だからです。命の恩人に感謝して生きるのは人として当然のことでしょう。理にかなった礼拝者として、生活の全領域で神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるためには、まず、悪魔が支配する「この世」と調子を合わせないで、「心(ヌース:むしろ頭)の一新によって自分を変えていただく」ことです。人は考えているように生きるものですから、聖書のみことばと教理をきちんと理解し、蓄えることが肝心です。そうしていれば、私たちの生活全体が、神への礼拝とされていきます。