メシヤの洗礼
「わたしについて来なさい。
人間をとる漁師にしてあげよう。」
マルコ1:17
<メシヤの洗礼> マタイ3:13~17
バプテスマ(洗礼)は、罪の悔い改めのしるしです。そうであるならば、なぜ罪のないお方(イエス)がバプテスマを受ける必要があったのでしょうか。
メシヤの洗礼の意味と、そこに現わされた父なる神様の愛について、ともにみことばにきく者でありたい。
イエス様が洗礼を受けるためにヨハネのもとに来たのは、「義を全て満たす」ためでした。「義を全て満たす」というのは、神様がイエス様を用いて、人間を義なる者とされるご計画を実現すること。つまり、イエス様が地上に来られた目的、イエス様のお名前の通り、「この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」マタイ1:21とあるように、民の罪の身代わりとなり、民を罪の力から解放する救い主となる事です。
人間の「義」は正しさを求め、正しくないことを裁いて責め、罪人を断罪します。しかし、イエス様の語る「神の義」は、断罪して切り捨てる正義ではなく、赦しと回復、希望、新しい生き方を与える「義」です。洗礼は、罪の赦しと神との関係回復の保証です。イエス様は、その洗礼の意味、「正しいことの実現」つまり「神様の愛と憐み、恵みによる救い」を、ご自身の洗礼によって実現されました。だからこそ私たちは、イエス様ご自身が洗礼を受けたように、この洗礼を受けて、神の赦しと新しいいのちを与る、私を罪から救ってくださる神の義を頂ける、と信じることが出来るのです。イエス様は、天の父なる神様の、人類を救うご計画を実現させるため、すべての点で私たちと同じようになられるために、私たちが受けるべきバプテスマを受けてくださったのです。
神様は、メシヤの洗礼を通して、イエス様を新しい御国の王として任命し、私たちをその御国の王子王女として御国を治める者としてくださいました。神の御子が、この世界を創造された神様のみこころに従って洗礼を受けたのですから、イエス様を信じる者が、イエス様に倣って洗礼を受けることは、ごく自然な、当然のことであると分かります。
まことの王であるイエス様が仕えるしもべとなり、神に仕えた歩みにならい、私たちも神様の忠実なしもべとして、御霊と御声をもってみこころを示してくださる主に従う決心を新たにしたいと願います。