聖霊を通して注がれる神の愛
「聖霊があなたがたの上に臨むとき、
あなたがたは力を受けます。」
使徒1:8
<聖霊を通して注がれる神の愛> ローマ5:1~
私たちは、何か困難な事に直面すると、神の愛を疑いたくなる衝動にかられます。神が人間を愛しておられるのなら、どうして、人間にとって災いとなることが次から次へと起こるのだろうか。私たちも、救われる以前ならそう考えたはずです。しかし、救いに与り、信仰を与えられ、いくつもの試練を経験することで、考え方が変えられています。パウロも変えられた人の一人です。
では、パウロは、苦難を通し何を確信することになったのでしょうか。私たちは、なかなか信仰のみによる救いという聖書が教える救いの条件を受け入れることができません。それは、救われるためには、「人間の行いが必要だ」と考えているからです。しかし、それほど高慢な態度はありません。何度も言ってきたことですがもし割礼が救われるために必要であると主張するならば、それはイエス様の十字架の犠牲だけでは不十分であると主張することになるのです。イエス様の犠牲の血は、過去・現在・未来の全人類の罪を完全に贖うことができるものなのです。私たちは、多くの試みを体験し、自分の罪深さを知る事が出来る者に変えられます。自分を義とする高慢な心が試練の中で取り扱われ、少しずつ砕かれ、謙遜に純粋に自分の救いが100パーセント信仰のみによるものであることを確信できる者に変えられます。
神の愛は、ご自身の愛する独り子を罪人(全人類)の身代わりに十字架につけ罪の問題を処理されたことに現われています。誰でも十字架のイエス様を主として仰ぎ見るなら罪を赦され、救われるのです。神からいのちがけの愛をいただいた者として、その愛に応答し、私たちもいのちがけで愛してくださったイエス様と共に生きることを決断し続けようではありませんか。
世にあってキリスト者の苦難は尽きません。しかし、必ず、終わりの時が来ます。その時、今より少しでも霊的に成長した姿をイエス様に見ていただくことができるように聖霊様に満たされ続け、みこころに従うことができる者に造り変えてくださいと日々、祈り求める者になりたいと願います。
「この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」ローマ5:5
「神は、実に、そのひとり子(キリスト)をお与えになったほどに世(全人類)を愛された。それは、御子(キリスト)を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ3:16