小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

ああ!なんと祝福されていることか。悲しむ者よ

「道々お話しくださる間、
 私たちに聖書を説き明かしてくださる間、
 私たちの心は内で燃えていたではないか。」

 

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ルカ24:32

                                  

<ああ!なんと祝福されていることか。悲しむ者よ>    マタイ5:4

 私たちは、先に、心=霊の貧しい者が幸いであることをイエス様に教えて頂きました。自分の霊的状態が貧困であり、神様のあわれみにすがらなければ、救いがないことを自覚している人だけが天の御国に入ることができるとイエス様は宣言されたのです。
 山上の説教と呼ばれる祝福のことばの二つ目、「悲しむ者は幸いだ」という教えも逆説的で、私たちの通常の考えでは及ばない事柄です。悲しみということを考える時、まず思い浮かぶのは、日常的な悲しみ、失敗したり、困難に直面したり、病にかかったり、死に直面したりするときの悲しみだと思います。また、この世の悪や災いに対する悲しみも挙げられるでしょう。しかし、ここでイエス様が言われた本質的な「悲しみ」とは、霊的な意味での悲しみ、つまり、自分の罪に対する悲しみです。ここで使われている「悲しい」ということばの「ペンセオー」は、心の内側の深い嘆き、絶望や苦悶を意味する、強く、激しい悲しみを表す言葉です。
 霊的に、罪ある現実を悲しむことが幸いな理由として、イエス様は「慰められるから」と言われます。慰められる者は、悲しむことが前提にあるのです。しかし、自分が罪人である自覚をもつことは困難です。それは、自分のうちにある罪の悲惨さに気がついていないからです。自分にとって益となることにばかり関心が向き、すべての行動基準が損得で判断され、自分の心が地上のことで満たされるだけで満足し、それ以上のことを求めようとしない。あわれむべき霊の貧困さが人間のうちにあるのです。
 それは、みことば(聖書)に対する飢え渇きも同じです。みことばに対する飢え渇きがあるということは、本当に幸いなことです。自分にとってみことばはなくてはないないものであり、神様から霊の糧を今、頂かなければ自分の霊は弱ってしまうことを自覚できることは当たり前のことではありません。その意味で、自分の霊の貧困状態を正しく把握し、危機感を覚え、今の現状を変えたいと心の底から願い求める思いが起こされるように祈り求める者でありたいと願います。
 世における悲しみは、どのようなものであれ永遠に続くものではありません。必ず終わりが来ます。私たちには変わるこのない確かな希望があるのです。御国(天国)で永遠に、主(イエス様)の慰めの中で悲しみも憂いも涙もない苦しみからも完全に解放された状態に移される時が来ると約束されています。(黙示録21:3~4参照)ここに自分の罪を悲しむ者の最高の慰めがあるのです。