小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

御国における報いの約束

「信仰によって、人々が七日間エリコの周囲を回ると、

 その城壁は崩れ落ちました。」

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  へブル 11:30

                                  

<御国における報いの約束>      マタイ5:11~12

 先週、私たちは「義のために迫害されている者は幸いです。」とのみことばに聴きました。この幸いは、3節に及んで語られ、「天の御国はその人たちのものだから。」という約束に裏付けられた、格別なものです。そこには、「天においてあなたがたの報いは大きいのですから。」という、さらなるお約束があります。

初代教会時代の人々、苦しみや困難の中にあっても信仰を貫き通した先代のキリスト者達が、迫害をも喜ぶことができた理由について、共にみことばにきいてまいりましょう。

 迫害を受ける中で、私たちの前には二つの道があると言えるでしょう。一つは、この世の人々に敵対され、攻撃されることを恐れて、迫害を避けようと、人々の顔色を伺い、大衆受けをねらい、この世の価値観と妥協して、この世の人のようになることです。もう一つは、迫害は、私たちに対して素晴らしい事実を示していると受け取って、これを甘受し、益々行くべき天に目を上げて、内から喜びに溢れて歩むことです。天の御国に至る途上において、この世の迫害は避けて通れませんがその中で、私たちの信仰が試され、磨かれ、聖められて、ますますイエス様に似た者と近づくために、整えられていくことができるのです。

 パウロや初代教会のキリスト者たちが、キリストのために苦しむことを受け入れ、迫害を耐え忍ぶことが出来たのは、地上の生涯を終えた後、天の御国でイエス様から頂くことのできる報いに目を向け、地上で与えられている使命に生きることにより、神様のご栄光を現わす器として用いて頂けることに、心からの喜びがあったからです。Ⅰコリント3:13~15参。

パウロが主からの報いに目を留め、そこに希望を抱いて生きていたと言うと、報いを期待して奉仕をしたのかという印象に、違和感を覚える方もおられるかも知れません。しかし、パウロは、救いが私たちの行いによるのではなく、恵みによって与えられるものだと主張したのと同様に、報いそのものも恵みによるものだと考えていたのです。イエス様ご自身も義のために迫害されているものに、恵みとして与えられる報いを約束し、励ましてくださったのです。迫害や困難の中にあって見上げる天の御国は、今、ここに捧げられている礼拝において現わされ、その前味を味わうことができる恵みが与えられています。

 主の日ごとに与えられる、この喜びと恵みを共にし、御国でイエス様が与えて下さる大いなる報いに目を留めて、天の御国の民、神の子として歩んでまいりましょう。