隠れたところで見ておられる神
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
まえはわずかな物に忠実だったから、
多くの物を任せよう。」
マタイ25:21
<隠れたところで見ておられる神> マタイ6:16
「あなたがたが断食をするときには、偽善者たちのように暗い顔をしてはいけません。」とイエス様は言われました。本来、神様に心を集中させて祈るためになされる断食という行為が、いつの間にか、人からの称賛を得るための行為に変わってしまったところに偽善者たちの問題、人間の内にある偽善の罪があることを教えられました
イエス様に「偽善者たち」と言われた人々は、人からの称賛を得るために頭に油を塗らず、断食していることが誰の目にも分かるようにして、人々の前で祈り、人々の前で施しをしました。彼らの関心は、隠れたところで見ておられるお方ではなく、人の目に自分がどう映るかという事だけだったのです。私たちも気を付けていないと、彼らと同じように人の目だけに関心が向かうようになり、自分でも気づかないうちに、人から称賛されることで満足し、心が神様から離れてしまいかねない者です。
サタンの誘惑は、私たちの目を人々に、自分に向けさせようと働きます。隠れたところで見ておられる神様よりも、人にどう思われるか、自分がどう評価されるかを意識する思いが心の中に湧き起こってきたなら、警戒しなければなりません。自分の祈りが人にどう聞かれているだろうか。自分の捧げたものを人がどのように評価しているだろうか。自分がどんなに大きな犠牲を払って神様のために奉仕しているのかを人に知ってもらいたい、評価してもらいたい、褒めてもらいたい、という思いが湧き上がることがあるかも知れません。自分を欺いて、神様のためにと口では言いつつも、自分の誉れのためにしていることがあると示されたなら、素直にそれを認め、その罪を悔い改める者でありたいと願います。
私たちが人から目を離し、父なる神様を見つめていく時、そこには、私たちの善い行いによってではなく、神様の恵みによって与えられる、すばらしい報いが見えてくるのです。私たちが断食をすること、善い行いをすることの究極の目的は、自分の栄誉ではなく、神様の栄光を現わすことです。
「こういうわけで、あなたがたは、食べるにも飲むにも、何をするにも、すべて神の栄光を現すためにしなさい。」Ⅰコリント10:31
砕かれた悔いた心で捧げられる祈りを、礼拝を、奉仕を、すべてを、隠れたところで見ておられる神様に心を向け、神様との交わりを尊び、私たちの心がいつも神様の近くにあることを求めて歩んでまいりましょう。そして、いかにも自分は罪を真剣に嘆いているというような、暗い顔をした生き方ではなく、イエス様の十字架の贖いによって、罪の赦しを与えられた感謝と喜びに溢れて生きる者でありたいと願います。