悪より救い出したまえ
「目を覚ましていなさい。
その日、その時を
あなたがたは知らないのですから。」
マタイ25:13
<悪より救い出したまえ> マタイ6:13
イエス様が主の祈りの中で言われる、この「試み」という言葉は、原語では「ペイラスモス」と言い、「試練」とも「誘惑」とも訳すことができます。試みを受ける私たち人間にとっては、試練と誘惑は表裏一体のものであると言えるからです。
時に、神様の主権のもとに与えられる試練は、その人の信仰や忍耐、神様に対する愛を強めるためであり、その人に益と恵みをもたらそうという目的で、神様が特別に与えて下さる経験です。その試みによって、私たちの信仰の真価が問われていく、どのような時も神様を信じ、神様が喜びも悲しみを与えて下さると信じることができる「本物の信仰」であるかどうかが問われる「信仰の試み」です。心から神様を信じる者は、悲しい時にこそ、神様を信じ、寄り頼み、そこに支えと希望を見出していきます。
しかし、この主の祈りの中で「試み」と言われている言葉は、わたしたちの益と恵みとなる試練というよりも、私たちを神様から引き離そうとする「誘惑」であると考えて良いでしょう。「誘惑」とは、私たちを神様の与えて下さる恵みから引き離し、神様のもとで生きることをやめさせようとする罪に至らせる「悪の試み」です。
私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください」という祈りは、私たちが罪と誘惑、サタンの試みに満ちたこの世界を、イエス様と共に歩み通すため、イエス様が共に祈り、執り成して下さっている祈りです。
サタンは、実に巧妙に私たちを誘惑し、私たちに罪を犯させ、神様と私たちの関係を妨害し、私たちの心を救われる以前の高慢な状態に戻そうと、私たちを神様から引き離し、永遠の滅びに至る罪を犯させようと働きかけてきます。
私たちは弱く、試みを受けることによって神様の恵みを見失ってしまうこともあるでしょう。しかし、イエス様の執り成しの祈りによって、何度でも、父なる神様の愛に立ち返ることが出来るのです。
この恵みのうちに、自分の弱さと、サタンの誘惑に対して無力な者であることを素直に認め、私たちがへりくだった心で、真剣に神様に助けを求めて祈る時、私たちの口には、父なる神様に対する賛美が溢れてくるのです。