みこころが行われますように
「わたしの計画は成就し、
わたしの望むことを すべて成し遂げる。」
イザヤ46:10
<みこころが行われますように> マタイ6:10後半
イエス様は、弟子たちに教えられた「主の祈り」において、最初に、驚くほど親しく「父よ」と呼びかけるよう教え、第一に「御名が聖なるものとされること、崇められること」、次に「御国が来ること」を祈るよう教え、それに続いて「みこころが行われるように」と祈ることを教えられました。
神様のみこころは、私たちがこうなって欲しいと願っていることとは違っていたり、私たちにとっては、苦しみや悲しみと感じられることである場合が多々あります。私たちは、その苦しみの中で、自分に対する神様の恵みの御心があるということを忘れ、見失い、苦しみの時に、神様のみこころはどこにあるのかと、迷いの淵に立つようなこともあるでしょう。
しかし、そのような時こそ、イエス様の祈りに目を向け、どのような事であっても、最終的に実現していくのは、神様のみこころだけであることを覚えたいと思います。
神様の「みこころ」を求め「みこころが行われること」を求める時 、わたしたちは苦しみます。「わたしたちの意志ではなく、神様のみこころが行われますように」と祈っていくことは、「自分自身の思いを捨てる」という戦いが起こり、苦しみに耐える忍耐と、自分の古い意志との戦いを伴います。イエス様は、その祈りの戦いを私たちに先立って戦って下さり、神様のみこころに従うために起こる苦しみを、先立って味わってくださいました。 すべての人の罪を負って、十字架につけられ死ぬことは、イエス様にとっても耐え難い苦しみだったのです。その苦しみの中で、イエス様は、「しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」と天の父なる神様に祈られました。自己中心な私たちが、「みこころが行われますように」と祈り、父なる神様のみこころを行なう者になっていくことができるのは、イエス様の祈りにならうことによってです。
天の父なる神様が、この私に与えてくださっているご計画が、私の生涯において実現するために、たとえどのようなところを通らされたとしても、「あなたのみこころに従います」と自らを天の父なる神様にゆだねること、それが、「みこころが行われますように」との祈りです。
先に福音を聞いた者として、すべての造られた者がまことの神様だけを崇める者となることを心から願い、信じて福音を宣べ伝え、イエス様が再び地上に来てくださる日を、心から待ち望む者でありたいと願います。