ああ幸いだ。あわれみ深い者たち
「おそれてはならない。
しっかり立って、今日あなたがたのために行われる
主の救いを見なさい。」
出エジプト14:13
<ああ幸いだ。あわれみ深い者たち> マタイ5:7
神は、滅び行く人間をそのまま見捨てることができず、ご自身の最も愛するひとり子であるイエスを地上に送って下さいました。ここに、ご自分を犠牲にして、人の罪を赦すことに従われた神の御子であるイエスの自発的な愛、神のあわれみ深さが明らかにされたのです。このことを覚える時、イエスが「幸いだ」と祝福された「あわれみ深い者」とは、生まれながらの人間に対して言われた言葉ではないことが分かります。
イエスが祝福された「あわれみ深い者」とはどのような人のことなのでしょうか。
イエス様は、誰に対しても平等に、あわれみ深く関わられたお方です。イエス様には、差別や偏見がありません。罪人と呼ばれる取税人であっても、遊女であっても、汚れた悪霊に憑かれた人であっても、神様によって造られた尊い人格をもった存在として、愛をもって向き合われました。イエス様からあわれみを受けた人々は、みな癒されます。
同じように、罪の赦し、神のあわれみを経験した人に、イエス様は言われました。「あわれみ深い者は幸いです。」私たちが「幸いです」と宣言された「あわれみ深い者」であるには、神様の私たちに対するあわれみ、恵みを知ることが出発点となります。自分の罪に目を向ける時、裁き以外の何物も受けるべきでない存在である私たちに、父なる神様は恵みを注いで下さる・・・イエス様が、私たちの受けるべき裁き、罪に対する御怒りを代りに受けて下さり、イエス様の十字架によって私たちは赦され、神の子の身分を与えられ、神様が恵みによって養い続けて下さっている・・・この「あわれみ」は本当に深いのです。
この神様のあわれみ深さを知る出発点は、自分の罪深さを知ることです。私たちはみことばに啓示されている自分自身の罪深い姿と対峙し、イエス様の十字架を仰ぐ時、莫大な罪の赦しとともに、「ご自分の御子をさえ<惜しまずに>死に渡された」(ローマ8:32)神様の深いあわれみ、惜しみない愛を実感するのです。そして、人は、イエス様を信じることによって、あわれみ深い者に変えられ、罪の赦しの確信を頂いた人は、あわれみの心を開く者に変えられるのです。
イエスが言われたあわれみ深さとは、神が人に対して持っておられるのと同じ態度を示すことです。神がその人のことを考えるように、自分も考え、神がその人に示す態度を、具体的な行動をもって表すことなのです。神の視点を頂いた者として、神からあわれみを受け、「あわれみ深い者」として頂いた者として、罪の中に苦しみもがいている人々の救いのため、愛とあわれみをもって執り成し祈り、「イエス様だったら、どうされるか」をいつも問いながら、みことばに生き、愛を実践する者でありたいと願います。