この希望は失望に終わらず
「見よ 主の目は 主を恐れる者に注がれる。」
詩篇33:18
<この希望は失望に終わらず> ローマ5:3~5
私たちの歩みには、平穏無事な時もありますが、予期しない激しい嵐に見舞われる時もあります。試練など、決して望む人はありません。避けたくても、容赦無く苦難は襲いかかってくるものです。ところが、パウロはこう言うのです。「苦難さえも喜んでいます。」なぜこんなことが言えるのでしょうか。この「喜ぶ」ということばを調べてみると、「誇りに思う」という意味であることがわかります。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と知っているから、だから誇りに思うのだというのです。苦難の中で、最初は何も見えなくなって右往左往することがあっても、じっと持ちこたえながら、その中で神のみこころを探り続ける経験・・・。
それはとてもつらいけれども、霊的な忍耐を生み出させるでしょう。
そして、「忍耐」は「練られた品性」を生み出します。「練られた品性」というのは、捉えにくいことばですが、もともと「試験済みの品質」という意味のことばだといいます。パウロがここで言おうとしたことは、忍耐を経て、本当に真のキリスト者であることが証明されるということです。そして「練られた品性」は「希望」を生み出します。苦難と希望・・・これは、常識的には、最も結びつきにくいことばのように思えます。厳しい苦難は、私たちを絶望に追いやることはあっても、「希望を生み出す」などということがあるのでしょうか。 しかし、パウロは、苦難を通し、忍耐を経て、証明された本当の信仰から「希望」が生み出されるのだと言います。しかも「この希望は失望に終わることがありません。」と確信をもって語ります。なぜでしょうか。
続いてパウロはその根拠を示します。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」唯一の絶対の根拠は、「神の愛」です。私たちのうちの何かによるのではありません。聖霊によって「神の愛が注がれているから」なのです。これほど確かで揺るぎのない根拠はありません。だから、この希望は決して失望に終わることがないのです。耐え難い苦しみのただ中で、この神の真実な愛を信ずることができますように・・・。