キリスト者の希望
「私はあなたを去らせません。
私を祝福してくださらなければ。」
創世記 32:26
<キリスト者の希望> Ⅱコリント5:1~10
パウロは、地上の住まいである幕屋が壊れても、神が下さる建物、人の手によらない永遠の住まいがあることを知っていると語っています。
「たとえ私たちの地上の住まいである幕屋(肉体)が壊れても(死)、私たちには天に、神が下さる建物(復活のからだ)、人の手によらない永遠の住まい(復活のからだ)があることを、私たちは知っています。」また、パウロは、次に地上のからだの中にあって、うめく現実に目を向け、自分が切望していることについて語るのである。それは、天から与えられる住まいを着たいという切望でもある。また、彼は、地上の幕屋を脱いだとしても、私たちの霊は裸の状態でいることはないと教えるのである。「確かにこの幕屋(肉体)のうちにいる間、私たちは重荷を負ってうめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいからではありません。死ぬはずのものが、いのちによって呑み込まれるために、天からの住まいを上に着たいからです。」パウロは自分が地上に生かされている間に主の再臨があることを切望する。それは、サタンの攻撃に弱いからだにあって失望し落胆することがあったからだと思われる。でも、彼は完全に絶望することはない。なぜなら、復活のからだが与えられるという確かな保証としての御霊を頂いているので希望を失わずに平安を得ていたからである。「ですから、私たちはいつも心強いのです。」そして、パウロは、肉体を住まいとしている自分の今の状態を述べ、自分の願いを記したのです。「ただし、肉体を住まいとしている間は、私たちは主から離れていることも知っています。」パウロは、肉体に留まるにせよ、肉体を離れるにせよ。どちらにしても救われた者が霊的に新しくされた者が求めるべきことを語る。「そういうわけで、肉体を住まいとしていても、肉体を離れていても、私たちが心から願うのは、主に喜ばれることです。」
パウロは、いつも主の再臨の日に心を留め、その日に向かって主に喜ばれる生き方を選択し、主からの報いを期待しつつ、復活の希望に生きたのである。死からよみがえって、今も生きておられる主に信頼して歩み続けていくならば、私たちの人生に主ご自身が働いて、その御業を満ち溢れさせてくださるのです。その時、私たちの働きが無駄になることはありません。それは、復活の希望があるからです。これがキリスト者の希望です。