小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

自分と周りを活かす愛

「心を尽くして主により頼め。自分の悟りに頼るな。
 あなたの行くところどこにおいても、主を認めよ。
  そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 箴言3:5.6

 

<自分と周りを活かす愛>       ルカの福音書15:11後半~24節

 人と世界が活かされるのに何が必要かを教える聖書箇所です。家出の話です。 人間は素晴らしい神様の子供なのに、神様のもとを離れて生きようとします。神様は家出された親です。13~16節、イエス・キリストは神を離れた人生(世界)を見事に描きます。
人間が幸せに生きるには、①自分自身との関係、②神様との関係、③他人との人間関係、が満たされる必要があります。弟君は、これを3つとも失ってしまいます。
①自分を活かすことを失い、劣等感に縛られ、生き甲斐を失います。
②神様との関係を失い、逆境や試練に必要な力はあるのに、得られず無力です。
③他人との人間関係を失い、誰にも愛されず、孤独です。
これが聖書の言う「死んだ人生」です。生き物としてではなく、本来の姿に生きているかどうかが問題です。「罪」のニュアンスは「的はずれ」です。今の時代の課題は、本来の姿に活かされていない死んだ親子関係、夫婦関係、家庭、…です。下りから上りに転じる境目は〈17節〉「我に返った」です。今の自分が本来の自分ではないと気付いたのです。人生には苦しみがあって当たり前、と納得していないでしょうか。苦しみは本来の姿から外れているからなのです。背を向けて来た故郷の方へ方向転換(悔い改め)しました。光である神様に背を向けていると自分の影が見えます。振り返る時、光に気付くのです。
20節「まだ家までは遠かったのに」「父親は…走り寄って彼を抱き…」待っていた神様の親心です。本人は資格がないと考えましたが、父は資格有りと扱います。予想を越えた無条件の回復、大宴会でした。父親は歓喜に溢れています。人間が本来の姿に活かされるためには、この神様の愛を受け取る事が必要だとイエス・キリストは教えました。


仏教にも「長者窮児の譬え」があります。両者は人間観は同じで、救われ方が対照的です。興味深いのは、弟息子は出て行って宴会し、帰って来て宴会している事です。しかし神様と共かどうかで、意味は全く変わります。
キリスト教徒になると、捨てるのではなく本来の姿になるのです。神様抜きの宴会に神様の命が入り、毎日が祝宴というのがキリスト教です。
罪人が神様に愛され、無条件で赦され、受け入れられるのは、余りに虫がいいという問題があります。これへの答えがイエス・キリストの十字架です。必要な犠牲は神様が引き受けて下さったのです。全てを活かす神様の救いに気付いて方向転換しましょう。