旧約聖書とイエス様
「あなたがたは世の光です。」
マタイ 5:14
イエス様が、ご自身と旧約聖書を、どのような関係であると教えられたのかを知ることは、本当に重要なことです。そもそも旧約聖書は、キリスト預言の書です。キリストの降誕、キリストの福音宣教の業、キリストの十字架、復活、昇天の預言が、すべてその通りに成就したことを私たちは知っています。聖書の中心はキリストであり、聖書は「みことばなるキリスト」そのものであると言えます。
律法学者やパリサイ派に属する人々は、その規則を実践して律法を形式的に守ることに心血を注ぎ、自己満足して、律法の規定を民に教えることに関しては優れていましたが、律法の根底にある精神、「神を愛し隣人を愛する」という愛が欠如していました。つまり、むしろ本来の律法が廃棄されてしまっていたのです。イエス様を律法の破壊者であると断罪したパリサイ派に属する人々は、律法の個々の条項規定を一つ一つ自力で守ることにより、律法の要求する義を追い求めました。そして、義に至らない事実を認めることが出来ず、自分にとって不都合なところは否定し、教え導くという言葉のもとに、人々を支配するのに都合の良いことを付け加えていくうちに、律法を成就し全うされた、イエス様ご自身を否定するものとなってしまったのです。
イエス様は、天の父なる神様の愛に基づいて生き、天の父なる神様のご意志を全うしようと生きること、それが神の義であり、天の御国の民としての生き方であると教えられました。
救われる以前、私たちは「律法」を、自由を奪い、束縛するもののように感じていたのではないでしょうか。けれども、イエス様に出会い、イエス様が御自身のいのちをかけて「律法の本当の意味」を教えてくださることにより、律法に込められた天の父なる神様の愛を知る者と変えられました。長い間、人間は、律法が自分たちを束縛すると考えてきましたが、実は、律法は、人間を本来の人間として生きるように、解放するためのものなのです。そもそも、旧約聖書に記されている十戒と訳された言葉は、原語では十のことばという意味であり、十の戒めではありません。律法の内容から考えると十の解放の言葉と言ってもよいでしょう。
律法=聖書のみことばが、愛=イエス様によって成就されることを信じて、父なる神様を愛する者として父なる神様が命じられたことに従い、イエス様が互いに愛し合うようにと命じられたことに喜んで従い、互いに赦し合い、受け入れ合い、助け合う者でありたいと願います。聖書そのもの、みことばなるイエス様に従って、主にある家族の絆を深める共同体を築いてまいりましょう。