神に栄光を帰する者となる
「あいするものたち、
じぶんでふくしゅうしては いけません。
かみのいかりにゆだねなさい。」
ローマ12:19
<神に栄光を帰する者となる> エペソ3:20~21
創造主を礼拝することは、人間が造られた第一の目的です。生まれながらの人間は、罪をもっている為、霊的に死んだ状態にあるので、本当の意味で創造主を礼拝することができません。しかし、神はまことの神以外の者を礼拝していた私たちを救い出し、霊的に新しく造り変え、永遠のいのちを与えてくださったのです。死からいのちへ、滅びから永遠のいのちに移された者が救ってくださった神を礼拝するのは当然です。礼拝を疎かにするとき、私たちの日常が神中心から人間中心、つまり自分中心に戻ってしまいます。自分と神との関係が整えられるならば結果はおまけでついてきます。神は、自分の間違いを素直に認め、神のもとに立ち返る者を赦し、神との関係を回復させてくださり、神からの祝福をいただけるようにしてくださるお方です。
パウロは自分がキリストに出会ったことを本気で喜び、どんな苦難に対しても肯定的に積極的に受け止め、信仰故の苦しみを光栄なこととして受け入れ、自分に与えられた使命のために全力を尽くしサタンと闘い続けます。一週間に一度、せめて一時間だけでも主の前に静まる時をもつなら、主のみこころを求め、主に従う決意をするなら、サタンの誘惑に簡単に惑わされなくなるのです。私たちは弱い存在です。神のことを考える時間さえないほどに忙しく働き、疲れ果て、霊的にも肉体的にも満たされていない状態でいるならばサタンの誘惑に負けてしまうのは当然です。自分がいかに弱い存在であることを自覚しているならばどんな犠牲を払ってでも礼拝を守る決断をしようではありませんか。
パウロは、宣教する中で神を第一にする人々が祝福されるのを一番身近に見ることのできた人です。パウロはアジア全域に宣教し、「神のご計画のすべてを、余すところなく知らせた」と言い切ります。使徒20:26~27参照。そのパウロがエペソの教会の兄弟姉妹をはじめアジアに住む異邦人たちが福音を受け入れ、キリスト者と変えられる姿を見て、神様のなさる救いの御業を思い出し、主を褒めたたえます。20~21節参照。パウロは、自分がした福音宣教を自分の功績であるなどと少しも思い上がることなく、すべてが神様の御業であると主に栄光を帰しています。
私たちもただ神の一方的な選びの故に救いに導かれ、神の約束の故に信仰が守られていることを感謝し、毎週、共に集まり、神を礼拝することを通して神に栄光を帰する者になりたいと願います。