小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

みことばに親しもう

「必要なことは一つだけです。
 マリヤはその良いほうを選びました。
 それが彼女から取り上げられることはありません。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ルカ 10:42

 

<みことばに親しもう>    Ⅱテモテ 3:14~15

 パウロは、若いテモテに対し、困難な時代にどう生きたら良いのか。沢山の試練を経験してきた先輩として、自分の体験したことを例にあげながら教えたのです。いつの時代もそうですが本物が現れると偽物も現れます。みことばを正しく教える教師だけでなく、偽りの教えを語る教師もいるのです。では、偽りの教えをどのようにして見破ることができるでしょうか。それは自分たちがこれまで親しんできた聖書を再び、学び直すことです。そして、学んだことを子どもたちや新しく教会へ来られた方に教えてあげることです。教えることでさらに学んだことが身につきます。
 では、パウロがテモテに思い出してほしかったことは何だったのでしょうか。それは、テモテがもう一度救いの原点に立ち返り、自分が学んで確信したところに留まることです。では、最後にパウロがテモテに一番伝えたかったことについて考えてみましょう。それは聖書が「人間の救いに欠かすことのできないものである」という点です。この地上には、生きるために読んでおいた方が良い書物はいろいろあります。しかし、永遠のいのちに直接関係するものは、聖書以外に与えられていないのです。
聖書が示す救いとは罪からの救いです。罪の問題の解決は、聖書が教える主の十字架の贖い以外にありません。さらに、祝福された人生を送りたいと本気で願うならどうしても「聖書に親しむ」ことが必要なのです。なぜなら、聖書にすべての真理が隠されているからです。聖書のみことばに親しむならば考え方も変わります。自分がどう思うかではなく、神様はどう思われるか。自分が何を喜ぶかではなく、神様が何を喜ばれるか。自分ならどうするかではなく、イエス様ならどうされるだろうか。そう考えながら、神様が喜ばれること、願われること、望まれることを選択することにより、私たちの生涯は祝福されはじめるのです。
 天の父なる神様は、子としたあなたともっと親しい時間と関係をもちたいと心から望んでおられるのです。神様は、一方通行ではなく、しっかりと向き合い、あなたと語り合うことを願っておられるのです。天の父なる神様は、聖書のみことばを通してあなたに語りかけておられます。その語りかけに対し私たちも喜びと感謝の思いをもって応答する者になろうではありませんか。

神に喜ばれるささげもの

「天の神ご自身が
 わたくしたちを成功させてくださる。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ネヘミヤ 2:20

 

<神に喜ばれるささげもの>    ピリピ4:10~23

 パウロは、宣教する中で数々の困難を体験し、祈りの中で気づいたのです。「私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです。」これは、自力でどんなことでも解決できるという意味ではもちろんありません。これは、文字通り私に力を与えてぃださる方によってどんなことでもできるという意味です。パウロに力を与えてくださったお方とは、主イエス・キリストです。パウロは、さまざまな状況に自分の力で対応したのではなく、その時、その時、よみがえられたイエス様から必要な力を与えられ、ある時は忍耐する力を与えられ、ある時は、肉体の苦しみに耐える力を与えられ、ある時は不安な思いから、悲しみの思いから、怒りから、解放していただいて、一歩一歩、前に進んで行くことができたのです。
 では、パウロは、人間に頼ることがなかったのでしょうか。いいえ、パウロも心から信頼している人々がいました。それがピリピの教会の兄弟姉妹たちです。パウロと彼らの間の信頼関係はどのようにして築かれたのでしょうか。彼らは、人間的な思いではなく、相手がどうであれ、同じ目的を共有する者同士、パウロとピリピの教会の兄弟姉妹たちは、キリストにあってつながっていました。そして、パウロとピリピの教会の兄弟姉妹たちの絆は、共に苦難を共有することで堅固なものと変えられたのです。14~16参照。パウロは、14節で「あなたがたは、よく私と苦難を分け合ってくれました。」と言っています。これは、主にある交わりの中で、喜びも悲しみも共にするという意味です。喜びの時だけ、物事が順調に進んでいる時だけ、でなく、困難な状況の時、試練の時、苦しみの時、一緒にそれを共有する。その関係がパウロとピリピの教会の兄弟姉妹たちの間にあったのです。パウロがアジアをはじめヨーロッパまで力強く宣教することができた背後には、その働きを後方から支援する人々がいたからです。<br>
 神様は、宣教のために私たちがさらに苦楽を共にする者になり、犠牲のともなったささげものを通して宣教のわざに参与することを喜ばれるお方であることを覚えたいと思います。
「私(パウロ)はすべての物を受けて、満ち溢れています。エパフロディトからあなたがた(ピリピの教会の人々)の贈り物を受け取って、満ち足りています。それは芳ばしい香りであって、神が喜んで受けてくださるささげ物です。」

 

神の国の民の責任

「何事でも神のみこころに従って願うなら、
 神は聞いてくださるということ、
 これこそ 神に対して私たちが抱いている確信です。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰヨハネ5:14

 

<神の国の民の責任>    ピリピ4:6~9

 パウロは思い煩わないこと、感謝をもって祈ること願うことを勧めています。 感謝な思いが自分の心の中に不足しているなあと感じるならばそれは自分の心が高慢になっていると考えてよいでしょう。
神様は、私たちが素直に自分の心の状態を認め、悔い改める時、私たちの祈りに耳を傾けてくださり、祈ったことが実現されるのを体験させてくださるお方です。なぜなら、罪を認める事により神様との霊的な交わりが回復し、霊の目が開かれ自分の今置かれている状況の中にすでに感謝すべき事柄が沢山あることが分かるようになり、思い煩いからも解放されるからです。思い煩うことのないようにと勧めたパウロ自身が思い煩いからの解放を体験していたのです。思い煩いから解放された者たちに対し、パウロはさらに次の事を勧めます。8~9参照。
ここには、一般的な善を追求するようにという勧めが記されています。キリスト者には、自分が救われたことだけで満足することなく、さらに、自分の家族が救いに導かれ、友人、知人が救われ、さらに地域で共に生活する人々が救われ、社会全体がみこころに沿った歩みへと向かうようにとりなし祈る責任があります。
 私たちは、日々、主の祈りをささげていますが、みこころが天になるごとく、地にもなさせたまえと祈る者として私たち自身がみこころを実践することが求められるのです。
そのみこころの中にパウロがあげたことが含まれます。「すべての真実なこと、すべての尊ぶべきこと、すべての正しいこと・・・」パウロは、これらのことに心を留めるようにと勧めています。この留めるという言葉は、単に気をつけておくとか、心の中に入れておくという意味ではなく、計画し実行するという意味で使用されています。まずは、身近なところから少しずつ良い影響を与える存在になれたらと願います。あなたが居てくれると家庭が明るくなり、家族みんなが元気になるね。あなたが居てくれると職場の雰囲気が明るくなり、みんなが気持ち良く仕事ができるよ。ずっとこの職場に居てね。この世界の運命は、先に救われた私たちの生き方によって大きく左右されるものなのです。
 日本においてキリスト者の人数は、人口全体の一パーセントに満たない厳しい現状です。しかし、一人一人が神の国の民としてその役割を果たすなら十分全体に良い影響を及ぼすことができます。共に神の国を建て上げるために神の国の民としての責任を果たす者になろうではありませんか。