小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

いつも主にあって喜ぶ者となる

「あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。 主が成し遂げてくださる。

             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  詩篇37:5

<いつも主にあって喜ぶ者となる>    ピリピ4:4~5

 パウロは、手紙の最終章において、再び、喜ぶようにと勧めます。
「いつも主にあって喜びなさい。」私たちは、いつも喜んでいるでしょうか。それとも、怒ったり、悲しんだり、浮き沈みの激しい生活を過ごしているでしょうか。私たちは、外から来る状況や状態に影響され、喜んだり悲しんだり怒ったりしながら生活しています。私たちの体験している喜びとは、条件づけられたもので、喜べる状況の時は喜び、悲しい状況の時は悲しむというものです。しかし、パウロが勧めている内容は、喜べる状況の時にだけ喜ぶだけでなく、喜べない状況の時にも喜べという意味なのです。


 パウロは、人間的に見れば不自由な状況の下に置かれていました。彼は、囚われの身であり、自由が制限された中で生活していました。しかし、パウロの心は自由だったのです。誰にもどんな状況にも束縛されることなく、彼は心から今、与えられている状況を喜ぶことができました。その秘訣はどこにあったのでしょうか。それは主にあって彼が喜んでいたという点です。主にあるとは、主イエス・キリストとの生きた人格的な交わりがあるという意味です。パウロが不自由な状況の中で喜ぶことができたのは、彼がイエス様との生きた交わりを持っていたからなのです。
 パウロは、救われる以前、キリスト者を捕らえ、牢獄に入れ、彼らをユダヤ教に回心させることが自分の使命であると信じ、がむしゃらに迫害の道を突き進んでいた人でした。しかし、彼はイエス様と出会い、気づかされたのです。自分は全く的外れな事をしてきたのだと。そして、パウロは異邦人宣教という召しを与えられ、その召しを成し遂げるために全力で正しい目的に向かって走りはじめたのです。彼は誰に対しても平等に福音を伝えました。自分がどう思うかではなく、主(イエス様)がこの人を救おうとご計画されたのなら、その計画を自分が邪魔することはできない。なぜなら、主は近いから。いつ、主の再臨かあるか分かりません。ですから、主から与えられたチャンスを逃すことなく、赦せる時に赦すことを選択する者になろうではありませんか。求めるならば主は必ず私たちに赦せる心を与えてくださいます。主に期待しつつ、喜びに満ちた新しい人生の第一歩を踏み出してまいりましょう。  

 

主にあって堅く立つ

「あなたがこの王国に来たのは、

   もしかすると、 このような時のためかもしれない。」
             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  エステル記 4:14

<主にあって堅く立つ>    ピリピ 4:1~3

 「主にあって同じ思いになってください。」同じ思いになる。残念ながら地上の教会は、完全ではなく必ず問題が起るものです。ピリピの教会も例外ではなく争う二人の婦人がいたようです。主にあって堅く立ち和解へ至る道について共にみことばに聞いてまいりましょう。
 パウロは二人の間にあるわだかまりを解消させるために、ピリピの教会の兄弟姉妹たちの支援を求めます。3節参照。「本当に、真の協力者よ」この協力者と訳された言葉は、共働者、仲間、配偶者とも訳せる言葉です。この言葉のはもう一つ「共にくびきにつながれている」という意味があります。力を合わせて宣教するには、同じくびきを負うことが必要です。どんなに本人たちの自我が頑なでも、周囲の真剣な勧めと周囲の愛による協力があるならば、必ず和解が成し遂げられます。でも、和解へ至る道にどうしても必要なことが一つあるのです。それは、一人一人が「主にあってしっかりと立つ」ことです。主にあるとは、私たちが信仰によって、主イエス・キリストの救いに与り、生ける主との交わりに与るという意味です。つまり、生ける主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおいてという意味が主にあるという言葉に込められています。ですから、パウロは、ピリピの教会の兄弟姉妹たちに生ける主イエス・キリストとの生きた交わりがあるなら、その主にあって堅く立つことができるのだと励ましているのです。


 これは私たちに対する励ましでもあります。ここに私たちの希望があります。どんなに仲たがいしている者同士であっても、その二人が互いに主にある者であることを思い出す時、イエス様がいのちがけで愛された者を「受け入れられません」と拒むことはできなくなるはずなのです。イエス様から何度も何度も無条件で自分の罪を赦していただきながら、自分を傷つける人の言葉や配慮のない態度、思いやりのない扱いに対し、「赦せない」とは言えなくなるはずなのです。
同じ主にあって救われた者同士であるならば必ず和解の道が開かれます。そして、イエス様との生ける交わりが回復すると、上からの愛を受け取ることができるようになり、その愛で自分を愛するように兄弟姉妹たちを本当の意味で愛せる人に変えられるのです。そこから和解の喜びに満たされた主あって堅く立つ新しい人生がはじまるのです。

 

天国民の希望

「ダニエルは穴から引き上げられたが、
 彼に何の傷も認められなかった。
 彼が神に信頼していたからである。」
             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ダニエル6:23

 

<天国民の希望>    ピリピ3:17~21

 私たちの希望は、どこにあるのでしょうか。地上にでしょうか。それとも、天の御国にでしょうか。今朝、共にみことばにきいてまいりましょう。
 ピリピの教会にはすでに自分は完全な者にされたと思い上がっていた人たちがいました。彼らの特徴は、彼らの関心事が肉の事に向けられていた点です。パウロは、それを欲望と表現しています。パウロは彼らの神はその欲望だと言っています。欲望を神とするとは、彼らの願いが自分を満足させることにあるという意味です。もっと別の言い方をすれば彼らの本当の願いは、自分が食べることにあるという意味です。つまり、自分の生活が重要なのです。しかし、それでよいのでしょうか。パウロは、天国民が関心を向けるべきことを教えます。それはやがて与えられる栄光の体です。今、私たちに与えられている体は、罪の誘惑に負けてしまう体ですが栄光の体は完全であり誘惑に負けることはありません。病気になることも、元気を失うこともない完全な体をいただくことができるのです。これは私たちにとってすばらしい希望です。
さらに、天国民の最大の希望は、主が再び地上に来られることです。初代教会の人々は、イエス様がすぐに再臨されることを願い、自分たちが地上に生かされている間に再臨があると信じて待ち望みつつ生活していました。それは、私たちも同じです。今の世界を見渡してみる時、悲惨な状況がいたるところに見られます。私たちの知ることのできない隠れた悪も沢山あるはずです。しかし、すべての事には必ず終わりがあるのです。イエス様が再び地上に来られたならばすべての事が明らかにされ、公平に報いを受けることが定められています。これは私たちにとって大きな慰めであり、励ましです。


世の人は、正直者が馬鹿を見るとまじめに生きることを過少評価することがあるでしょう。しかし、すべてを知っておられるお方を侮ることほど愚かなことはありません。私たちは、すべての思いと行いの報いを刈り取る時が必ず来ます。私たちは、弱い存在です。この戦いの多い、誘惑に満ちた世界でキリスト者として天国民として生きることは容易なことではありません。
 一週間に一度は、主の御前に自分の生活を顧みる時をもち、自分の歩みが神様のみこころから外れたものになっていないかどうか、確認し、みことばの光に照らされて、自分の生活をみこころに沿ったものに軌道修正し、天に国籍を移された者としての自覚を新にし、キリスト者としてふさわしい生活を実行する決断を更新し続ける者でありたいと願います。