小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

御名が聖なるものとされますように

「悪に負けてはいけません。
   むしろ、善をもって 悪に打ち勝ちなさい。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通ローマ12:21

                                  

<御名が聖なるものとされますように>         マタイ6:9

 イエス様が最初に祈るようにと命じられたことは何でしょうか。それが「御名が聖なるものとされますに」です。イエス様が言われる御名とは、実に神そのもののことで、ユダヤ人たちは「神ご自身」のことを「御名」と呼びました。名の中に、神の本質、その栄誉、栄光、すべてのものが含まれると考えられていたからです。「御名が聖なるものとされますように」とは、神ご自身が聖なるものとされますようにという意味であり、神が真に神として崇められ、礼拝されるようにと願うことです。

 では、まことの神が神として礼拝されていない日本における私たちの責任と役割とは何なのでしょうか。私たちが、この世界を創造された神様を心から畏れ、感謝と喜びをもって礼拝し、賛美に溢れて生きる姿が、世に対する何よりの証です。イエス様のご生涯、その使命は、ご自分の父の御名を知らせること、父なる神様の愛、その素晴らしさを世に現わすことでした。その極みが、十字架です。

   イエス様の十字架の贖いによって救われ、神の子とされた今、私たちにとって、父なる神様を礼拝できることが何よりの喜びであり、まことの神様を礼拝すること以上に重要なことはありません。

  何か特別な、人の目につく素晴らしいことを行うことではなく、私たちが神の子とされたものとして、父なる神様を慕い求め、御名がほめたたえられる礼拝を捧げることを、父なる神様は何よりも喜んで下さいます。

  確かに、一回一回の礼拝を捧げるためには様々な障壁や犠牲があり、毎週、共に礼拝を捧げることは簡単なことではないでしょう。だからこそ、今日も、神様の愛される兄弟姉妹と共に礼拝をお捧げ出来た恵みを心から感謝し、喜び合い、来週も共に礼拝が捧げられるように祈りながら、新たな一週間を歩み進めて行く。この素朴な信仰の歩みが「御名が聖なるものとされますように」という祈りなのです。

  私たちの創造主であり、父なる神様を礼拝することを第一として生きる自分の存在を通して、神様の素晴らしさが現わされるなら、こんなに嬉しい幸いはありません。

 主を褒めたたえ、喜びに溢れて、その愛と恵みに満たされて生きることを願いつつ、自分たちを通して「御名が聖なるものとされますように」との祈りが実現されること心から祈り、共に礼拝を捧げてまいりましょう。

天の故郷にあこがれて

「神は真実な方です。
    あなたがたを耐えられない試練に
    あわせることはなさいません。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通Ⅰコリ10:13

                                  

<天の故郷にあこがれて>          へブル11:8~16

 へブル人への手紙の著者は、天の故郷に憧れて生き、信仰の人として死んだ人として、アブラハムの名を挙げています。「アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました。」
 彼の信仰の原点と言える人生の転換点、それは、創世記12章にも記されている通り、アブラハムが神様の召しを受けた時、住み慣れた地を捨てて、どこに行くのかを知らないまま旅に出た、この出来事です。この世の常識では、あり得ない決断であると言えるでしょう。しかし、アブラハムは、神様の命令に従うことを決心し、選びました。ここに、信仰とは何かということが示されているのではいかと思います。つまり、信仰とは、人間の常識で行動することではなく、神様の御言葉に従うことである、ということです。

 信仰によって生きる人は、この世ではなく永遠の御国に望みを抱きます。私たちの心には、天の故郷に憧れて、この地上において神様の約束のことばを信じ、先に天に召された兄弟姉妹たちの姿が刻まれています。彼らの晩年は、平安に満ち、御国への希望の確信と喜びに満ちていたことを知っています。地上での祈りや願いが、たとえ私たちの思い通りにならなかったとしても、ただ一つ、私たちが何よりも願い求めていること、天の御国に迎えられ、主イエス様と父なる神様とともに永遠に生きること、その願いは確かに聞き届けられ、かなえられている…私たちにとって、これ以上に幸いなことはありません。

 やがてイエス様とお会いし、先に召された兄弟姉妹たちとの再会の喜びがある…この希望に満ちた「天の故郷への憧れ」を抱きつつ、主の約束の真実さを信じて、共に励まし合い、支え合いながら、天の故郷に向かって歩んでまいりましょう。

聖霊による信仰告白

「神に信頼し私は何も恐れません。

 人が私に何をなし得るでしょう。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通詩篇56:11

                                  

聖霊による信仰告白>          使徒4:13~22

  ルターは、当時のカトリック教会から破門され、1521年にヴォルムスの帝国議会に召喚され、自説の撤回を求められました。その時、ルターが述べた内容は以下のものです。
 「皇帝陛下ならびに諸侯がたは簡潔な答えを要求されます。それでは簡潔に、ありのままをお答えします。聖書の証によってわたしの誤りを証明し、わたしの良心が神の言葉によってとらえられない限り、わたしは何事も取り消すことはできません。なぜなら良心に反して行動するのは、なすべきことではないからです。わたしは断固としてここに立つものです。それ以外のことはできません。神よ、わたしを助けたまえ。アーメン。」

  私は、このルターの弁明を読んだ時、ペテロたちがユダヤ最高議会で弁明し、復活されたキリストに対する信仰を告白している姿を思い浮かべました。 ユダヤ最高議会の脅しに対して、「しかし、ペテロとヨハネは彼らに答えた。「神に聞き従うよりも、あなたがたに聞き従うほうが、神の御前に正しいかどうか、判断してください。私たちは、自分たちが見たことや聞いたことを話さないわけにはいきません。」

 非常に力強く、確信に満ちた大胆な返答です。

 ペテロたちは、人間的に見れば極めて危険な状況に置かれています。ユダヤ人、ユダヤ社会に生きる者にとって、神の下す判決に等しいとされるユダヤ最高議会の判決・命令に背くことは、神に対する反逆と受け取られることでした。しかし、ペテロたちは、人間を恐れることなく、人間に権威をお与えになった神を恐れ、神がイエス様を死者の中からよみがえらされ、40年間歩いたことのなかった人がイエス様の御名によって立つことが出来た事実に確信をもって、自分たちが見たこと、イエス様から聞いたことを証言し続けると宣言したのです。

 10月31日はルターが、当時の教会の在り方に疑問をもち討論の呼びかけをきっかけにはじまった宗教改革記念日です。その宗教改革は、信仰のみによる救いの確信、つまりそれは、私たちの救いが、ただ神の恵みによるもので、価なしに義と認められるという真理の確信に留まり続けるために、御霊様の力によってなされたことでした。

 私たちもルターやペテロたちに倣う者となり、永遠に変わることのない聖書のみことばに立ち、日々新しく確信をもって、神の恵みの中に生きる者となることを祈り求めてまいりましょう。