小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

主イエスを信じなさい

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」

 

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<主イエスを信じなさい>          使徒16:25~34

 どの教会にも掲げられているもの、それは十字架です。十字架は、イエス様が私の罪のため、あなたの罪のため、私たちが受けるべき罪の罰を、私たちにいのちを与えるために身代わりに受け、ご自分のいのちを投げ出されたものです。イエス様は、一度も罪を犯したことのない神の御子です。そのお方が血を流して苦しみ、身代わりとなって死んでくださったほどに、あなたは神から愛されているのです。この神の愛に触れ、イエス様を信じ受け入れる時に、あなたの人生は大きく変わります。

 牢獄に入れられてもなお、神に賛美をささげていたパウロとシラスは、イエス様と出会い、救い主として信じ、自分たちが神の働きのために生かされていることを確信していた人たちです。この揺らぐことのない平安と確信は、まさにイエス様の十字架によります。いのちをかけてあなたを愛された「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」・・・

 私たちは、この福音を聞いて、どうするか、自分で選択しなければなりません。この選択だけは、誰かに代わってしてもらえることではないのです。どんなに自分に身近な人であっても、家族であっても、最終的な決断をするのは、あなた自身です。神は、あなたが自ら決断することを求めておられます。

 パウロたちの前にひざまずき、ひれ伏して救いを求めた看守は、提示された福音を素直に受け取ることを決断し、主イエスを信じて本当の救いに与りました。

「主イエスを信じなさい」の「主イエス」ということばは、「主イエスの上に」という表現で、イエス様の上に自分を乗せること、主にわが身のすべてを明け渡し、信頼して、イエス様にすべてを委ねること意味しています。主にお委ねする全てのこと、大切なものの中には、当然家族も含まれます。罪を赦された喜び、イエス様がいつも共にいてくださる平安、神に愛されている確信、それは何よりも人の心を自由にします。イエス様の十字架の愛によって、すべての罪の力から解放され、真の自由と救いの喜びを体験することができます。

 愛する家族に、大切な人たちに、救いの喜びを伝えたいという熱い思いを持ち、イエス様の愛を伝えること、それは「そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」という確かな約束が実現するために、救いにあずかった一人一人が果たすことです。それは、私たちの救いが、本来、一本釣りではなく、地引き網のように家族ごと救われると言う約束に基づいたものだからです。 私たちの信仰と救いの原点は、「主イエスを信じなさい。」という福音を素直に受け取るところにあります。信じるなら、誰でも救われるのです。あなたも、主イエスを信じましょう。
          

この希望は失望に終わらず

「見よ 主の目は 主を恐れる者に注がれる。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通詩篇33:18

                                  

<この希望は失望に終わらず>          ローマ5:3~5

 私たちの歩みには、平穏無事な時もありますが、予期しない激しい嵐に見舞われる時もあります。試練など、決して望む人はありません。避けたくても、容赦無く苦難は襲いかかってくるものです。ところが、パウロはこう言うのです。「苦難さえも喜んでいます。」なぜこんなことが言えるのでしょうか。この「喜ぶ」ということばを調べてみると、「誇りに思う」という意味であることがわかります。「苦難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」と知っているから、だから誇りに思うのだというのです。苦難の中で、最初は何も見えなくなって右往左往することがあっても、じっと持ちこたえながら、その中で神のみこころを探り続ける経験・・・。

 それはとてもつらいけれども、霊的な忍耐を生み出させるでしょう。

 そして、「忍耐」は「練られた品性」を生み出します。「練られた品性」というのは、捉えにくいことばですが、もともと「試験済みの品質」という意味のことばだといいます。パウロがここで言おうとしたことは、忍耐を経て、本当に真のキリスト者であることが証明されるということです。そして「練られた品性」は「希望」を生み出します。苦難と希望・・・これは、常識的には、最も結びつきにくいことばのように思えます。厳しい苦難は、私たちを絶望に追いやることはあっても、「希望を生み出す」などということがあるのでしょうか。 しかし、パウロは、苦難を通し、忍耐を経て、証明された本当の信仰から「希望」が生み出されるのだと言います。しかも「この希望は失望に終わることがありません。」と確信をもって語ります。なぜでしょうか。

 続いてパウロはその根拠を示します。「なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」唯一の絶対の根拠は、「神の愛」です。私たちのうちの何かによるのではありません。聖霊によって「神の愛が注がれているから」なのです。これほど確かで揺るぎのない根拠はありません。だから、この希望は決して失望に終わることがないのです。耐え難い苦しみのただ中で、この神の真実な愛を信ずることができますように・・・。
          

神の子として祈る

「ただ主を恐れ、

 心を尽くして、誠実に主に仕えなさい。」

 

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<神の子として祈る>             マタイ6:5~8

 私たちにとって「祈り」とは何でしょうか。一般的に、多くの人にとって、「祈り」は「祈願」という言葉にも表されるように、自分の思いや願いを込めること、あるいは、願いそのものを指しているのではないかと思います。クリスチャンにとって、「祈り」は「霊の呼吸である」と言われ、「神様との対話」と言われるように、まず神様のみことばを聞いて、それに基づいて祈ることが肝心であり、単に自分の願いを連ねるだけでなく、主への賛美、感謝、執り成し、悔い改めなどを通して、父なる神様との人格的な交わりを持つという、信仰生活の基本であり、中心をなすものです。神様は、祈る前から私たちの願いを知っておられ、私たちが求めなくても、私たちを天からの恵みで満たしてくださるお方です。だからと言って、わたしたちが祈らなくても良いということにはなりません。私たちが神様のみこころと一つとされ、神様が与えて下さる恵みを感謝して受け取るために、祈りはなくてはならないのです。

 「わが父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください。」私たちは、このイエス様の祈りを心に留め、祈る者になりたいと願います。イエス様は、十字架の前に悩み苦しむ思いを正直に打ち明け、その上ですべての主権者である父なる神様に祈りの答えをゆだねました。私たち人間の限りある思いを超えたところで働いて下さる父なる神様は、全能で、豊かな恵みをもって私たちに答えて下さるお方です。祈りの答えは、神様の主権のうちにあることをいつも覚え、すべてを委ねて、ただ、「自分の願いではなく、みこころの通りに」と祈る時、時にかなって、主がすべてを益としてくださることをキリスト者は信じ、確信するのです。

 ゲッセマネの祈りを捧げられたイエス様のお姿に倣い、祈りにおいて、自分自身を明け渡していくこと、それは、すなわち、父なる神様のみこころと一つとされていくことです。これこそが、神の子として祈る者の最大の恵みです。そして、父なる神様に、子として祈ることができる、この関係そのものが救いなのです。与えられた信仰により、祈りを通して父なる神様との交わりを持つことができる…神の子として生きることは、祈りによって実現するのです。私たちは、その恵みの中で喜んで感謝しつつ、心の内にある思いを全て素直に明け渡し、父なる神様の「みこころのように、なさってください」と祈る者になろうではありませんか。