小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

わたしを覚えて

「天にいます。私たちの父よ。 
 御名が聖なるものとされますように。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ6:9

 

<わたしを覚えて>    Ⅰコリント11:17~34

 私たちは、毎月、第一主日礼拝の時に聖餐式を執り行っています。すでに聖餐式の意義をご理解いただいていると思いますが、共に集まり聖餐の恵みに与れない状態になりつつある今、もう一度聖餐の意義について共にみことばにきいてまいりましょう。
 私たちは、聖餐と愛餐の時をそれぞれ別々にもってまいりました。聖餐は、第一主日の礼拝の中で愛餐会は、第三主日の礼拝後に持っています。しかし、もともと聖餐と愛餐は、一緒になされていたのです。17~22参照。コリントの教会も、初代教会の兄弟姉妹たちに倣い、富める者が貧しい者の分まで食べ物を余分を持参して、互いの必要を満たしていた麗しい愛の状態がありました。しかし、いつの間には、その麗しい愛の溢れる愛餐会が愛のない、自己中心な者たちの集まりに変質していたのです。その状況がパウロの説明している内容です。
本来、聖餐は、その聖餐の主人であられるイエス様が中心となり、イエス様の十字架の意味を思い巡らし、主(イエス様)の慈しみと主の御苦しみを覚えるために記念として繰り返しもつようにと主によって定められたものでした。しかし、その最初の趣旨が忘れ去れ、教会の集まりがただの飲み会に変質していたのです。これでは、主が悲しまれるのも当然です。
 聖餐は、主が定められたものであり人間が勝手に定めたものではなく、出来る時にしたい時にするというものではなりません。これを守るようにと主が弟子たちに与えられた主のご命令なのです。この世界をご支配されておられる主のご命令であることを忘れることなく、どんな状況になっても守り行うことができるように務め励む者でありたいと願います。そして、聖餐のパンは、イエス様が十字架でさかれた肉体を現しています。私たちは、聖餐式の時に牧師が目の前で裂くそのパンを見る度にイエス様が十字架でさかれた肉体を覚え、そのイエス様の受けられた苦しみの背後にイエス様の身代わりの犠牲という愛があることを想起することができます。
エス様は、私たちの弱さをご存知のお方であられ、私たちが繰り返し、主の十字架のもとに立ち返ることができるようにと主の聖餐を制定してくださったのです。これはどんなに感謝しても感謝し尽くすことのできない恵みです。この主の聖餐を制定してくださった主の愛を覚えて喜びと感謝のうちに主の聖餐に与らせていただきましょう。

 

天の御国が近づいたから

「隠れたところにおられる 
 あなたの父に祈りなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マタイ6:6

 

<天の御国が近づいたから>    マタイ4:12~17

 マタイは、イエス様の宣教開始をバプテスマのヨハネの投獄の知らせと関係づけて記しています。イエス様にとってバプテスマのヨハネは、親戚であり、半年しか年の差の違わない身近な存在でした。イエス様にとってそのヨハネの投獄は、悲しい知らせだったはずです。そして、同時にいよいよ自分もメシヤとしてご自身に与えられた使命を成し遂げるために立ち上がる時が近づいたことを自覚されたのです。
 イエス様が宣教の本拠地に選ばれたカペナウムは、堕落し腐敗している町でした。イエス様は、罪人の集まる闇の中に、死の陰の地に住む人々の所に来てくださり、彼らの本当の姿を明らかにし始められたのです。そして、イエス様は、宣教の第一声を発せられたのです。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」悔い改めるとは、方向転換を意味する言葉です。神様に背を向けて生きることをやめ、神様の方へ向きを変え、神様が用意してくださった福音を受け入れることです。福音は、十字架に架かって罪を贖ってくださったイエス様を信じることです。そして、イエス様が望んでおられることは、罪を赦された者たちが罪の力から解放され、神の子として天に国籍を移された者としてまことの神様だけを礼拝することにより、神様に栄光を帰する者になることです。


しかし、イエス様は、人々に拒まれ、殺され死んで3日目によみがえられ、福音宣教を弟子たちにゆだねられたのです。弟子たちは迫害を受けましたがその逆境を乗り越え、海を渡り、文字通り地の果てまでも福音が伝えられたのです。全人類が福音を聞く時が近づいています。その意味で、世の終わりは確実に近づいているのです。手遅れになる前に、私たちに出来ることがあるはずです。あなたでなければ伝えられない人々がいます。
それでも、人間は、実に弱い存在です。顕微鏡でしか見ることのできない小さなウイルスに怯え、未来に対する希望を失いかねない無力な存在です。しかし、私たちは、そのような逆境の中にあっても希望を失うことがありません。それは、私たちのいのちは、天の父なる神様の御手の中にあり、神様がすべてを最善と変え、益としてくださるお方であられることを信じているからです。イエス様にお会いするその時の備えが出来ているでしょうか。イエス様は、次のように宣言されたのです。「悔い改めなさい。天の御国は近づいたから。」

 

神の包括的な救済ご意志

「信じない者ではなく、
 信じる者になりなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ20:27

 

<神の包括的な救済ご意志>    Ⅰテモテ2:5~17

 テモテへの手紙に見られる祈りの特徴は、すべてという言葉です。
2章の1節から7節の間に5回もすべてという言葉が出てきます。この祈りの中にすべてという言葉が沢山使われていることからパウロが包括的な神の救済ご意志を意識していたことが分かります。そして、キリストがお語りになられた言葉や行いを通しても、天の父なる神が人類の救いを望んでおられる事を知ることができます。
 キリストは、誰に対しても平等に愛を示されたお方です。キリストは、相手が誰であっても、律法の教師であっても、ユダヤ最高議会の議員であっても、取税人や遊女であっても、同じように真摯に相手と向き合い、彼らに福音の真理を解き明かされたのです。私たちは、キリストを通して神の救済ご意志を知ることができるのです。また、ヨナ書からも神の救済ご意志を知ることができます。預言者のヨナは、神からニネベの町に行き、神の裁きの警告をし、彼らに悔い改めを迫るようにと命じられます。ヨナは、神の命令に背きます。なぜなら、ニネベはイスラエルの敵国だったからです。ヨナは、敵であるニネベの町の人々は滅びてしまった方が良いと本気で考えていました。しかし、敵対する国の人々であっても、神には、滅んで欲しくない大切な人々だったのです。
 パウロも神の救済意志を体験していました。なぜなら、パウロは、キリスト者たちを迫害しキリスト者たちのいのちを奪っている人だったからです。パウロは、よみがえられたキリストに出会い、自分の罪を示され、キリストから与えられた新しい使命のために自分のいのちを捧げよう。自分のために身代わりとなって罪を贖ってくださったキリストのために生きる者になろうと彼は方向転換を決断したのです。
 悔い改めとは、神に背を向けて生きていたところから神の方に向きを変え、神の望まれる道を神の導きに従って生きることを意味しています。日本には、まだ、福音を聞いたことがなく、神に背を向けて自分勝手に生きている人々が沢山います。彼らの救いを一番望んでおられるお方は、天の父なる神です。その父なる神のご意志を知らされた者として、人々の救いに必要な福音を届ける器として、私たちは召された一人一人です。最低、週に一度は共に礼拝をおささげし、みことばにきき、キリストから派遣されて、それぞれの持ち場立場に行き、そこで神がどれほど人間を愛してやまないお方であられるか。証する者になろうではありませんか。