小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

死から永遠のいのちへ

「わたしはよみがえりです。いのちです。」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ11:25

 

<死から永遠のいのちへ>    ヨハネ11:1~27

 私たちは、例外なく、神様を信じている信じていないに関係なく、それぞれがどのように地上で生きてきたか。申し開きをする時が来ます。その時の備えができているでしょうか。
 キリスト教の葬儀は、希望に満ちています。確かに、愛する人との別れは、寂しいものです。辛いことです。しかし、私たちは、死んで終わりではなく、死後の世界があることを知っています。イエス様は、私たちより先に天国に帰られ、私たちの為に住まいを備えてくださっています。ヨハネ14:1~3参照。
ですから。クリスチャンは、死を恐れません。死の先に永遠に天国でイエス様と共に過ごす日が約束されているからです。救われる以前、死はのろいでしたが、救いに与ることにより、死は天国の入口に変えられています。兄弟の死を悲しんでいたマルタにイエス様は、次のようにおっしゃられました。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。」なんという希望に満ちたイエス様の宣言ではないでしょうか。イエス様は、わたしはよみがえるとおっしゃられたのではなく、よみがえりそのものであるとおっしゃられたのです。
 イエス様は、いのちそのものであられるともおっしゃられます。イエス様は、この世界を無から創造されたお方です。一度死んだ人間をよみがえらせることなど簡単な事なのです。イエス様は、死んで葬られたラザロを眠りから覚ましに行くと弟子たちにおっしゃられたのです。イエス様にとって死は恐れるべき対象ではなくなり、死は一時的な眠りに過ぎません。イエス様を信じるならば誰でも希望に満ちた人生を送ることが可能となります。ですから、私たちは、主が再び来られる再臨の日に向かって今、自分にできる最高の礼拝を全身全霊で捧げさせていただこうではありませんか。後、何回、一緒に地上で礼拝を捧げることができるか分かりません。一回、一回の礼拝は、二度と戻ることのない掛け替えのない大切な時間です。
 私たちは、滅びに向かって歩む者から永遠のいのちへ向かって歩む者に移された者たちです。この希望に満ちた福音を家族や友人や知人にどう伝えたら良いのでしょうか。主から知恵と力と勇気と信仰をいただいていのちの君であられるイエス様の素晴らしさを伝える者に変えられたいと願います。

 

大胆に恵みの御座に近づこう

「キリスト・イエスは<br>
 罪人を救うために世に来られた。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰテモテ1:15

 

<大胆に恵みの御座に近づこう>    へブル4:14~16

 私たちは、どうして、自分たちだけがこのような試練に直面させられるのだろうか。失望し落胆する出来事に遭遇することがあります。しかし、キリスト者には、希望があるのです。
聖書は、キリストが偉大な大祭司であられると教えています。大祭司は、毎年、民の罪を贖うために神殿の至聖所に入り、動物の血を契約の箱のふたに振りかけることにより神の民の罪を贖うという務めを神からゆだねられた者でした。それに対し、キリストは、一度だけご自身の血をもって神の民の罪を贖われ、もはや神と人の間にあった隔ての幕は取り除かれ、自由に礼拝できる時代が訪れたのです。偉大な大祭司であられるキリストは、さらに人間が経験するあらゆる試みを受けることにより、試みの中にあるすべての人に同情できるお方になってくださったお方です。

 私たちも日々、サタンの誘惑を受け、その誘惑に負け、罪を犯すことがあります。同じようにキリストもサタンの誘惑と戦われ、その誘惑に聖書のみことばをもって完全に勝利され、私たちの模範を示してくださったのです。サタンに誘惑されること自体は、罪ではありません。誘惑に負ける時、その人は罪を犯すことになるのです。そして、もう一つ覚えたい事それがキリストのとりなしです。サタンは、いつも私たちが罪を犯す度に私たちの有罪を訴えます。しかし、私たちが告訴される度に、キリストが私たちの側に立ち、弁護してくださいます。これ以上に心強いことはありません。
すべての罪の罰は、すでにキリストが十字架の上で受けてくださったことによりその訴えは、すべて無効とされます。天の父なる神は、キリストの十字架の罪の贖いが有効である証拠として、キリストを死者の中からよみがえらせてくださったのです。神の御子のよみがえりは、御子の十字架の罪の贖いが父なる神に受け入れられた証拠としてなされた事だったのです。そして、私たちがサタンの誘惑に打ち勝つ力は、天の父なる神からいただくものなのです。
 キリストは、大祭司となられ、私たちと天の父なる神の間に入り、私たちと父なる神を繋ぐ役割を担ってくださっています。私たちは、無力ですが私たちが縋り付くお方は、全能者であられる神です。この世界を何もない状態からおことばだけで創造されたお方です。死者をよみがえらすことのお出来になられるお方です。ですから、試練の度に、折にかなった助けをいただくために、大胆に神の恵みの御座に近づく者になろうではありませんか。

 

すべての人のために祈る

「わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。 
 人がわたしにとどまり、
 わたしもその人にとどまっているなら、
 その人は多くの実を結びます。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ15:5

 

<すべての人のために祈る>    Ⅰテモテ2:1~4

 とりなしの祈りは、キリスト者にとって、教会にとって何よりも優先されなければならないことの一つです。初代教会の人々が良く祈っていたように私たちも彼らに習い、共に集まり、共に心を合わせ祈る群れでありたいと願います。 
 私たちが今、求められている祈りは、すべての人のためにとりなし祈ることです。パウロは、すべての人のために願い、祈り、執り成し、感謝をささげるようにと勧めています。すべての人のために祈る。これはとても重要な視点です。私たちは、とりなす相手を制限してしまう傾向があります。自分に対し好意的な人や自分と関わりのある人のためには祈るけれど、自分に対し好意的でない人のためにはあまり祈らないということがあるのではないでしょうか。しかし、この世界を創造された神様は、ご自身が造られた被造物が滅びることをお望みではありません。どんなに私たち人間が互いに傷つけ合い、殺し合う者であったとしても、分け与えることをやめ、限りあるものを奪い合うような者であったとしても、神様はそんな私たちを心からあわれんでくださるお方です。

そして、ご自身がどれほどあわれみ深く愛に満ちた存在であるかを人間に教えるために、愛する御子を地上に派遣され、イエス様の御業を通して、創造主なる神様が人間を愛してやまないお方であられる事実を明らかにしてくださいました。
取返しのつかない所まで行く前に私たちに出来ることが日々、執り成し祈ることです。ですから、私たちは、特に王たちと地位の高いにある人々のためにとりなし祈ることが必要です。
今の日本に当てはめるなら、天皇と為政者たちのために祈る必要があることがわかります。彼らには、ある一定の権限が与えられています。しかし、彼らがその与えられた分を越えて暴走する時、神様は彼らを滅ぼされることでしょう。そうなる前に、私たちは、彼らの救いのために執り成し祈る者となることが求められています。
主日に礼拝の中で祈られる司会者の祈りに心を合わせ、為政者たちの救いのために祈り続けましょう。彼らが本来の役割を誠実に果たし、自分の利益ではなく、国民一人一人の益を考え、神様から与えられた富が平等に分配され、すべての国民が平安のうちに落ち着いた生活を送ることができる政策を考え出し、実行に移すことができるように執り成し祈る者になろうではありませんか。