小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

主の恵み深い取り扱い

「何が主に喜ばれることなのかを
 吟味しなさい。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  エペソ5:10

 

<主の恵み深い取り扱い>    Ⅰテモテ1:12~17

 テモテは、エペソの教会を牧する中で自分の足りなさや不甲斐なさを覚え、自分の限界を感じ、失望し落胆してたようです。そんな彼を励ますためにパウロは、自分がどんなに主の恵み深い取り扱いを受けたかを証します。パウロは救われた後、考えたかも知れません。どうして自分が救われたのだろう。自分が異邦人に福音を宣べ伝える者に選ばれたのだろうか。もっと他にこの働きにふさわしい働き手がいるのではないか。よりによってキリスト者を迫害する者の先頭に立っていた者を召されなくてもいいのではないか。しかし、パウロは気づいたのです。「そうだ。自分が救いに選ばれた理由は、これから救われる人々の為に、神様がどんなにあわれみ深いお方であられるかと示すための先例にするためである」ことに気づかされたのです。1:13~16参照。
かつて、キリスト者を迫害していた者が今、使徒に召され福音を伝える光栄な務めがゆだねられている。これはどんなに感謝しても感謝し尽くすことのできない大いなる恵みなのだとパウロは生涯、主の恵み深い取り扱いを忘れることはなかったことでしょう。


テモテも、パウロからの手紙を受け取り、パウロの証を読み。思い出したのです。そうだ自分も、かつて神様のあわれみを受け、救いに導かれ、今、エペソの教会の牧師として立てたられているのだと。ただ一方的な恵みにより主の召しに与り、今、ここで一つの群れを牧することが許されていることに気づかされたのです。

そして、パウロが一番伝えたいメッセージは「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた」という事実です。救い主(キリスト)は、罪人を救うために来てくださったお方です。罪人とは誰でしょうか。そうです。私自身の事であり私たちのことなのです。自分が罪人であると自覚できることは本当に幸いな事です。私は罪人であったではなく、罪人です。救われる以前、罪人であったではなく、救われた後も罪人であることに変わりはありません。罪人であることは過去形ではなく、現在形なのです。現在進行形です。この救いの原点に常に立ち返り続け、主の恵みにより、ただあわれみの故に救われた者であることを思い出し、新しい思いで聖書を読み、祈る者になろうではありませんか。
天の父なる様は、あなたとの霊的な交わりの回復をずっと待っていてくださるのです。あなたが罪を認めるならば、主はあなたの罪を赦し、主とあなたとの親しい交わりは以前のように回復されるのです。

 

神の愛を追い求め続ける

「ホサナ。祝福あれ、
 主の御名によって来られる 方に。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マルコ11:9

 

<神の愛を追い求め続ける>    Ⅰテモテ1:3~11

 エペソの教会には、神の愛を追い求めることをやめ、清い心、健全な良心、偽りのない信仰からそれ、自分の知識欲を満たし、好奇心を満足させるために果てしのない作り話と系図に心を寄せる人々がいました。
私たちが追い求めるべき愛とは、どのようにして生じるものなのでしょうか。その愛の起源について3つのことを中心に共にみことばにきいてまいりましょう。
①それは、「きよい心」です。
私たちの心がきよめられるために必要なことは、自分の罪を常に言い表し続けることです。Ⅰヨハネ1:5~10参照。私たちは、完全に義なる神の御前に立つ時、誰ひとり自分の無罪を主張することのできる人はいません。神様の目は、私たちの心の中にある汚れた思いをはっきりとご覧になっておられます。ですから、その罪を素直に認め続け、その罪を赦してくださいと真剣に祈り求め、すべての不義からきよめられ続ける必要があるのです。
②それは、「健全な良心」です。
この良心は、善悪の判断のために人間に与えられた機能のことです。この良心が正しく働く時、愛が生じるのです。ローマ2:15参照。異邦人は、ユダヤ人のように律法を与えられていませんが心の中に良心が与えられ、善悪の判断をすることができるのです。この良心が正しく働くとき、そこに愛が生じるのです。
③それは「偽りのない信仰」です。
愛は、信仰なくしてはありえないものです。本物の信仰は、私たちのうちにある罪を明らかにし、私たちを悔い改めに導きます。なぜなら、信仰が与えられるとその人のうちに聖霊が住んでくださるようになるからです。聖霊は、私たちのうちにある罪を教えてくださるお方です。ヨハネ16:7~11参照。偽りのない信仰を追い求め、神の御前に正直に自分の心の状態を言い表し続けその罪を赦していただき、罪を赦された者として、神の愛を追い求める者になりたいと願います。本気で求めるならば神の愛(アガペー)をいただくことができます。

 神の愛は無条件の愛です。無限に赦し続けてくださる愛です。私たちの状態に関係なく神は私たちにその愛を注いでくださり、私たちが日々犯し続けている罪を赦し続けてくださっています。神の愛を受け取ってその神の愛で自分を愛し、人を愛する者に変えていただこうではありませんか。これからも神の愛を追い求め続けてまいりましょう。


 

主のあわれみに目を向ける

「求めなさい。そうすれば与えられます。
 探しなさい。そうすれば見出します。
 たたきなさい。そうすれば開かれます。
」             

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ルカ 10:42

 

<主のあわれみに目を向ける>    Ⅰテモテ1:1~2

 パウロは、いつも手紙の冒頭にあいさつを記します。テモテへの手紙の挨拶の構成は、三つの部分に分けられます。
第一は、発信人について。第二は受信人について、第三は祝福の祈りです。短い挨拶の中にパウロがこの手紙でテモテとエペソの教会の兄弟姉妹たちに伝えたいと考えたことを共に考え、みことばにきいてまいりましょう。

 発信人はパウロです。パウロが挨拶の中で使用している使徒という言葉は、ギリシャ語でアポストロスと言い、その意味は「全権を委任されて派遣された者」です。つまり、パウロキリスト者を迫害しキリスト者をダマスコの町まで追撃していた最中に復活されたキリストと出会い、その誤りを示され、異邦人宣教の働き人としてキリストから直接使徒に任命された者でした。パウロには、キリストから全権を委任されて派遣された者という自覚をもって、異邦人に福音を宣べ伝えていたのです。
 では、受信人であったテモテとパウロの関係について考えてみましょう。パウロはテモテを「真のわが子テモテ」と呼んでいます。パウロはテモテを自分の子ども同様に愛し、テモテもパウロを自分の父親のように慕い、敬い、喜んでパウロの勧めに従っていました。喜んで従うテモテをパウロが真のわが子と記しているのはとても自然なことなのです。
 最後に祝祷の中にパウロがあわれみを加えた意味について考えてみましょう。テモテもエペソの教会を牧会する中でいろいろな困難を経験し逃げ出したくなることもあったことでしょう。神様の愛を疑いたくなるような出来事も何度もあったかも知れません。そんな時、パウロから受け取ったこの手紙を読み、彼は大いに励まされたはずです。「そうだ。パウロ先生も主のあわれみをいただきながら宣教し、主の群れを牧会しておられたのだ」と。テモテは、手紙の冒頭に記された祝福の祈りを通して主のあわれみをすでにいただいていることを実感することができたはずです。
私たちも今、与えられているものを心から感謝し、すでに与えられているものや状態を主(神)からの最善のものとして受け取りなおし、主のあわれみを受けていることを自覚する者になれるように祈り求めてまいりましょう。そこに感謝が生まれます。そして、感謝する者を神様は豊かに祝福してくださるのです。