小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

献身と変革   折戸 正義 師

「わたくしたちが仕える神は、
 火の燃える炉から、わたくしたちを
 救い出すことができます。」
             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ダニエル 3:17

 

<献身と変革>    ローマ12:1~2

 1、あなたをささげなさい。 
その条件 ① 「神に受け入れられる」 これは、旧約時代のいけにえ礼拝を前提にしています。いけにえは欠点のない動物であること。値打ちの高いもの。私たちクリチャンの場合、自分自身のこと。
②「聖い」は、クリチャンの場合、キリストの贖いを受けて、「聖い」とされた者です。 
③「生きた供え物」というのは、現在の自分自身のこと。つまり、礼拝者は、自分を生きたまま供えものとして、自分を神様に捧げるように、勧めています。<br>
「神に捧げる、ということは、死を意味します。つまり、ローマ6 : 4にあるように、キリストとともに死に、キリストとともに生き返るのです。「死につつ生きる」のです。自我に死に、キリストとともに生きるのです。


2、あなたを変えなさい「2節」 
この世というのはキリストを信じない世界をいいます。聖書は、この世をサタンが支配しているといいます。もちろん、サタンと言えども、神の支配下にありますが、神は、深いみこころを以て、サタンの動きを許容しておられます。私たちは、この世にある限り、社会の一員として反社会的であっては、なりません。
キリストを第一として生きるものは「この世と調子を合わせてはいけません。」
キリストと社会の二者択一、つまり、キリスト第一生活は、「この世」の捨てるべきものを判断し、大胆に捨て続けなければなりません。この世と結びやすいのは、「我欲」ですから、「自分を捨て続ける生活」が求められます。


3、あなたがたを生かしなさい 
キリストに従う時、この世の抵抗を受けます。時には激しく、時には誘惑的やさしさで。キリストを選択するとき、不可能を可能にする神の助けが、あります。その助けを得るために必要なのは信仰です。自分を生かすのは、神への信頼です。「世に勝つ者とは、だれでしょう。イエスを神の子と信じる者ではありませんか。」
(第一ヨハネ5 : 5)

 

すでにと未だの間に生かされて

「この世と調子を合わせてはいけません。」
             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ローマ 12:2

 

<すでにと未だの間に生かされて>    ピリピ3:12~16

 ピリピの教会には、すでに完全な者とされたと思い上がっている人々がいたようです。確かに、神様の救いの御業は、完全であり、神様が一度救った者を滅ぼされることはありません。だからと言って私たちの救いは、地上に生かされている間、未完成であることもまた真理なのです。なぜなら、救われた後も私たちは罪を犯す罪人に変わりはないからです。神様は、救われた者たちが救ってくださったイエス様のご性質に似た者に変えられることを望んでおられるのです。
 聖書を読む時、自分の好きな聖書個所ばかりを選んで読むことを控え、バランス良くみ言葉の糧をいただくことが必要です。どうして、自分の嫌いな聖書個所を読むことが必要なのでしょうか。それは、自分の心の痛いところをみことばが示してくるからです。目をそむけたくなるような箇所ほど重要な箇所であると認め、そのみことばを自分の生活に適応しみことばと格闘し、自分の願いや思いよりもみこころを優先することを選択し、みことばに従って実際に行動することにより、私たちの信仰ははじめて成長することができるのです。これは実に実践的な営みです。
 パウロは、本気で自分の不完全さを自覚していました。人間の目から見ればパウロほど完全な者は他に見られないほど隙のない生き方を実践していたはずです。しかし、彼は多くの失敗を通して自分の高慢さを打ち砕かれ、謙遜な者と変えられ、最後の最後まで完成を目指して追求する者でありたいと願う者に変えられていました。これはこの地上でキリスト者としてふさわしく生きるために必要な自覚なのです。自分は、未完成な者なのだ。確かにすでに救われている。しかし、未だその救いは完成していない。完成の日に向かって少しずつ新しく造り変えられ続けている者であることを心にいつも覚える者でありたいと願います。
 パウロは目先のことではなく、ずっと先のことに照準を定め、天の御国でイエス様から「良くやった。良い忠実なしもべよ」とお褒めの言葉をいただけるように生きることに徹しようと心に決めたのです。パウロは、自分に課せられた使命を全うし、悔いのない人生を走り貫いたと言い切っています。Ⅱテモテ4:6~8参照。
 私たちも彼の生き様にならい。地上においてキリスト者としての役割を果たし、自分にできることはすべてやり尽くしたと思い残すことはもう何もないと晴れやかな心で人生の最後を迎える者になりたいと願います。

 

キリストを知った喜びに生きる

「神は霊ですから、神を礼拝する人は、
 御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」
             
        
                                                f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ 4:24

 

<キリストを知った喜びに生きる>    ピリピ3:1~11

 ピリピ人への手紙は喜びの書簡を呼ばれるほどなんども喜びという言葉が記されています。パウロは、どこまでも寛容な人でしたがなんでもかんでも容認していた人ではなく、言うべき時には厳しく語る人でもありました。パウロは、2章までの手紙の様子とは、ガラリと変わって厳しい口調でピリピの教会の兄弟姉妹に警告します。2節参照「犬どもに気をつけなさい。」パウロが「犬」と呼んでいる人々は、ユダヤキリスト教徒たちの事です。彼らは、パウロが宣教し建て上げた教会に混乱をもたらした人々です。彼らが主張した内容は、救われるためには信仰だけでなく、割礼を受けることと律法を守ることが不可欠であるというものでした。パウロは、この教えに対し絶対にそんな必要はないといのちがけで抗議し、救いの条件は、ただ一つ信仰のみであると一歩も妥協することなく断固として最後までその主張を貫き通しました。
 救われる以前のパウロは割礼を受けること律法を守ることが救われるためには必要不可欠であると主張する側の人間でした。しかし、パウロは、イエス様と出会い、キリストを知った喜びに満たされ変えられたのです。彼は、イエス様に出会い、はじめて気づいたことがありました。自分がキリストを知る前から自分はイエス様に覚えられていたのだと、彼は、イエス様から知られていた喜びを体験します。それは私たちも同じです。私たちもイエス様から一人一人覚えられているのです。「わたしはあなたを知っている。わたしはあなたが地上に誕生する前からわたしはあなたがいつどこで生まれ、どのような人生を送ることになるかすべてを知っていたのだと。そして、これからもあなたのことをいつも見守っている」とおっしゃってくださる方と私たちは出会うことによりキリストに知られている喜びに満たされるのです。パウロはイエス様のいのちがけの愛を受け取り、その愛に自分もいのちがけで応答し、全心、全霊で宣教に取り組み、自分に出来ることはないかと祈りつつ奉仕に励み、キリスト者として悔いの残らない歩みをしようと奮闘します。
天の父なる神様は、パウロのように喜んで主のために、仕える人になることを私たちに期待しておられるのです。
 新しい年、主が何を自分に求めておられるのか。一人静まってみことばに聴く時をつくり、主から示されたみことばを握りしめ、地上の残された日々を精一杯生かさせていただこうではありませんか。