小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

主を待ち望む信仰姿勢

「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって
 私たちにいのちを得させてくださいました。
 それによって神の愛が私たちに示されたのです。」
              

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<主を待ち望む信仰姿勢>      マタイ 26~29

 アドベント(待降節)は降臨節とも言われます。アドベントという単語は、本来、ラテン語 Adventus から来ており、ギリシャ語の「パルーシア」の訳語です。新約聖書の用法では「イエス・キリストの再臨」を指すために使われています。すなわち、「待降節」は、メシアの来臨を待ち望んだイスラエルの民になぞらえて、新約の教会がイエス・キリストの再臨を待ち望む事を覚えるための期間とも言えるのです。今日は、主が聖餐式を制定された箇所を通して、聖餐式の意味について学び、どのような思いで主の再臨を待ち望んだらよいのかその信仰姿勢を確認いたしましょう。
 主は、弟子たちが福音を宣教していく時に、必ず受けることになる迫害を耐え忍ぶことができるように、弟子たちが繰り返 し、自分の救いの確信を確認できるように、聖餐式を執り行うように命じられたのです。主が弟子たちに渡されたパンは、主の肉体を現わしています。私たちの罪が赦されるためには、罪のないお方の肉体が裂かれる必要がありました。神は、主の苦しまれる姿をご覧になられることにより、やっと人間の犯した罪を赦すことがおできになったのです。ですから、私たちは、その神と自分の関係を確認し続ける必要があります。
では、杯の意味は何でしょうか。主が弟子たちに与えられた杯は、主が十字架で流された血を現わし、その主の流された血は、神と人との間に交わされた契約の保証を意味しています。自分がどんなに罪深いものであっても、主が流された血によって、きよめられない罪など一つもありません。私たちは主の血の価値を正しく受け止め、大胆に恵みの御座に近づき、自分の犯した罪を言い表すことができるのです。神は、私たちが告白する罪を「完全に」赦してくださり、私たちに罪の赦しから来るところの「平安」を与えてくださいます。
 クリスマスは、神が私たちを罪の力から解放し、 罪責感からも解放し、喜びと感謝をもって御前に出ることのできる者と変えるために神の御子が降誕された日です。愛するひとり子を犠牲にしてまで、私たちを救いたいと考えられた神の愛を受け取り、その神の愛に応答し、互いに愛し合う者となり、平和をつくる者になることが求められています。愛であられるイエス・キリストを心にお迎えし主に従う道を選択するならば愛を行動であらわす人に少しずつ変えられるのです。
主は、約束どおりに再び地上に戻って来られます。いつ主が戻られても慌てることがないように、主の死と復活を告げ知らせ、主の命令に従う生活を実践する者になりたいと願います。

 

罪のためのなだめの供え物

「主よ。あなたは私を探り
 知っておられます。」
              

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<罪のためのなだめの供え物>      ローマ3:25~26

 罪を犯した人間に対する神の裁きは、私たちの肉体の死と霊的な死を現実においてすでに執行されています。霊的な死とは、神との霊的な関係が断絶されている状態を意味しています。生まれながらの人間は、霊的には死んだ状態なのです。霊的に神と交わりが断絶されたままでいるならばその先にあるものは永遠の滅びです。神の罪に対する厳しい姿勢は、昔も今も根本的に変わっていません。ただ、新約時代に生かされている私たちは、旧約時代のように罪を犯した者が即、滅ぼされるという裁きを受けていないだけなのです。でも、私たちの生かされている時代を聖書の視点に立って見る時、そこに神の恐るべき裁きが行われていることを知ることができます。なぜなら、福音を聴くことなく滅びていく 魂が毎日沢山いるからです。これは実に恐ろしい状況です。神の御子であられるキリストを信じるならば救われ、永遠のいのちをいただくことができます。しかし、キリストを信じないならばその人に待っているものは永遠の滅びです。
では、神はどのようにして私たちが滅びることなく、救われる道を備えてくださったのでしょうか。3:25参照。義なる神は、同時に愛なる神です。ご自身が造られた人間が滅びることを望んではおられません。何とかして幾人かでも救いたいと神は、考えられ、人間が救われる方法を考え出されました。それが罪のない神の御子による身代わりの死です。旧約時代のイスラエルの民が自分たちの犯した罪のために動物を神に犠牲として捧げる行為を通して、神に罪を赦していただいていました。それと同じように、神は、私たちの罪を赦すために完全な犠牲の供え物であられるキリストを地上に遣わされ、十字架につけ、ご自身の義を全うされたのです。神の御子の完全な血でなければ償うことのできないものが罪です。一つの罪が全人類にどれほど大きな影響を与えたか。アダムとエバの関係が罪によってどれほど悲惨な状態に変えられたのか。アダムたちの子どもたちにどれほど大きな悪影響を与えたのか。忘れてはならないのです。
罪は、神と人間の信頼関係を破壊し、人間同士の信頼関係を破壊し 、人間と自然との関係も破棄しました。一度破壊された関係を修復することは容易なことではありません。キリストは、それらの破壊された関係を修復するためにご自身のいのちを犠牲にするために、この地上に来てくださったのです。御子を派遣された父なる神の思いとキリストの思いを黙想し、その多くの犠牲の故に私たちの救いがあることをもう一度覚えつつアドベントの時を過ごしてまいりましょう。

 

堕落の現実

「あなたは、わたし以外に、
 他の神があってはならない。」
              

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<堕落の現実>      Ⅰコリント2:14

 救いの素晴らしさを思い出すためには、救われる以前の状態を知る必要があります。生まれながらの人間は自分たちが堕落した存在であるとは考えません。私自身も救われる以前 、自分が堕落した人間であるなどと夢にも思わない者でした。聖書は、生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。とはっきりと人間が堕落した者であることを教えています。14節参照。
 では、生まれながらの人間が堕落した者であることを生まれながらの人間の特徴から考えてみましょう。一つ目の特徴は、罪を悔い改めることができません。なぜなら、その人に御霊様が与えられていないからです。罪を悔い改めるためには、罪が自覚できなければなりませんが罪が自覚できるようになるには御霊様が与えられる必要があります。罪の自覚のない人を無理やり、悔い改めさせることは不可能です。天の父なる神様は、神の選びの民であるイスラエルの民に何度も預言者を遣わされましたが人々は、ことごとく預言者たちを拒み、彼らを辱め、殺していきました。罪の自覚がないことほど悲惨な状態はありません。自分が父なる神様の御前に裁かれる存在であることを自覚できるかできないかはとても重要なことです。
二つ目の特徴は、イエス・キリストを神の御子であると信じることができません。なぜなら、それも御霊様が与えられて初めて可能となることだからです。
イエス・キリストを神の御子であると信じることができるようになるためにはその人のうちに御霊様が与えられ、信仰が与えられる必要があります。十字架にかけられ、人間の手にかかり無残に殺されるような無力な者を誰が神の御子であるなどと信じることができるでしょうか。誰も、自分の力でイエス・キリストが神の御子であると信じることはできません。
私たちは生まれながらに堕落した者であり、罪の自覚もなく、滅びに向かって歩んでいた者たちでした。私たちは、自分の力で自分が罪人であり、父なる神様の御前に裁かれるべき存在であることを悟ることもできない者でした。しかし、イエス・キリストを主として心にお迎えした現在、私たちには御霊様が与えられ、自分が罪人であることや、罪がなんであるかということや、父なる神様の御前に自分のしてきたことを裁かれる存在であることを自覚できる者に変えられています。ですから、イエス・キリストを私たちの救いのために地上に誕生させてくださった父なる神様の愛を心から感謝しましょう。