小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

福音のために

「わたしもあなたを罪に定めない。
 行きなさい。
 今からは決して罪を犯してはなりません。」
                 
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ8章:11節

 

<福音のために>       使徒16:1~5

パウロたちは、一刻も早くルステラに辿りつきたいと道を急ぎます。その理由は、 そこが以前宣教した際に石打ちの刑にあった場所であった為、そこに残してきた兄弟姉妹の様子が気になったからです。パウロは、自分が福音を伝えた相手のことを一日も忘れることなく、彼らの信仰が守られるように祈り続けていました。 神様が必ず彼らを守ってくださると信じ委ねていても実際に会うまで安心できません。また、ルステラ訪問にはもう一つ大切な目的がありました。それが同行者の獲得です。パウロは、異邦人宣教のために、テモテが用いられると考えたのです。なぜなら、テモテは、ユダヤ人の母親によって幼い時から旧約聖書を通してまことの神様を畏れる者に育てられていました。 さらに、彼の父親はギリシヤ人であった為、テモテはギリシャ語に堪能であり、異邦人宣教にその能力が用いられるからです。そして、何よりテモテがルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であったこともパウロの目に留まった理由の一つであると考えられます。

神様は、マルコを伝道旅行に同伴させるか、させないかでバルナバという強力な助け手を失ったパウロにテモテという有力な助け手を予め備えてくださっておられたのです。ところがここで一つの問題が生じてきます。それは、テモテが割礼を受けていなかった点です。パウロがテモテに割礼を受けさせた理由は二つ挙げられます。一つ目は、ユダヤ人の多くは割礼を受けていない人を一人前のユダヤ人として認めません。一人前のユダヤ人として認められないと一緒に食事をするなどの交わりに参加することができません。二つ目は、ユダヤ教の会堂で説教する場合、割礼を受けている必要がありました。 この二つの障害をクリアーするためにパウロは、テモテに割礼を受けさせたのです。パウロは決して「救いに割礼が必要である」と考えを変えたわけではありません。ただ「何とかして福音を人々に伝えたい」と考えたのです。テモテも、パウロの考えに同意して割礼を受け、パウロと共に伝道旅行に同伴する決断をします。パウロもテモテも福音のため」ならば何でもするという姿勢で一致していた故に犠牲を惜しむことなく割礼を受けたのです。(Iコリント9:19~23参照)

神様は、私たちが与えられた賜物を喜んで捧げ、福音のために生きる者になるこ とを望んでおられます。出し惜しみすることなく、全力で自分に与えられた使命を果たし、いつの日かイエス様にお会いした時に 「よくやった。 良い忠実なしもべだ」 (マタイ25:21)とのお褒めのお言葉をいただくことができるように、悔いのない日々を選択していこうではありませんか。

すべてを益と変えてくださる主

「彼らの信仰を見て、イエス
 『友よ。あなたの罪は赦されました。』
 と言われた。」


                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ45章20節

 

<すべてを益と変えてくださる主>       使徒15:36~41

 エルサレム会議の後、パウロバルナバにこれまで宣教してきた教会を訪問しようと提案します。初めの伝道旅行からすでに3年の月日が経過していました。しかし、そこで大きな問題が起こったのです。その問題の原因は、マルコを伝道旅行に同伴させるか、させないかということでした。バルナバは、マルコと親戚関係にあり、最初の伝道旅行にマルコを同伴させたのもバルナバでした。しかし、パウロはマルコを同伴させることに反対し、バルナバパウロの間に激しレ反目が生じたのです。パウロの言い分は、最初の伝道旅行の際に身勝手な理由で宣教の働きから退くことを決断したような者は伝道者として失格であるということでした。確かに、困難なことに直面する度に宣教の働きを放棄するような者を同伴させるわけにはいきません。しかし、バルナバは慰めの子と呼ばれる人であり、一度失敗したからと言って伝道者として失格であると烙印を押すことをせず、チャンスを与え、マルコを伝道旅行に同伴させ、彼を一人前の伝道者に育てようと考えたのです。パウロバルナバもそれぞれ自分の意見を変えることができなかったのです。
パウロたちも私たちと同じ弱さをもつ人間です。頭でこうすべきだと分かっていても、それを実行することは容易なことではありません。晩年のパウロであれば、バルナバの提案を素直に受け入れることができたかも知れません。しかし、宣教の使命に燃えていたパウロは、バルナバの意見に同意することができず、別々の道を進むことになったのです。自分の考えが正しく、相手の考えが間違っていると互いの主張を受け入れ合うことができない事態は二人の人格の未熟さを露呈することになりました。しかし、神様はこの不測の事態を通して、宣教と牧会の働きがさらに力強くなされるようにしてくださったのです。なぜなら、この後、バウロはシラスを同伴者として選び、さらにテモテを伝道旅行に同伴させ、二人を傍において訓練し、彼らを主に仕える教師に育て上げることになるからです。バルナバも、マルコを同伴者として選び、彼の指導にあたりマルコを主に仕える教師に育てあげます。
神様は、 人間のいざこざでさえも益と変えてくださり御国の建設の実現のために用いてくださるお方です。私たちは、欠けの多い者たちであり、失敗することも多々あります。 しかし、神様はそんな弱い私たちを忍耐し続け人格的に霊的に成長することを期待してくださいます。すべてを益と変えてくださる主を信頼し、主の与えてくださる試練を感謝し受け入れ、教会に仕え、共に宣教する群れになろうではありませんか。 

聖霊と私たち

「まことに、まことに、あなたに告げます。

 人は新しく生まれなければ、

 神の国を見ることはできません。」


                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ3章3節

 

聖霊と私たち>           使徒15:22~35

 使徒の働きを注意深く読んでみると至ところに聖霊様の名が登場していることが分かります。そして、イエス様の弟子たちによって広められた宣教の背後には、常に聖霊様の存在があり、その聖霊様の働きが今も続いていることを覚えたいと思います。そうでなければ、弱い弟子たちが迫害を恐れずに大胆に宣教し続けることはできなかったはずです。初代教会は、いつも聖霊様を意識して宣教に取り組んだのです。教会の歩みは、聖霊様と共に進められるものです。力づよく宣教するためには、健全な教会が形成される必要があります。健全な教会とは、人間中心の教会ではなく、聖霊様が中心になっている教会のことです。
初代教会は、自分たちだけで相談し教会の歩みを決めていたわけではありません。彼らの話し合いの中心にはいつも聖霊様がおられ、みことばをもって聖霊様が彼らにみこころを示し、一致を与えられたのです。人間の救いの条件は信仰のみでよいという初代教会の決議は、彼らの考えではなく、聖書から導き出された結論でした。ですから、誰ひとりその決議に反対する者はいません。それは現代も同じです。

教会の歩みは、牧師や役員の一部の意見によって進められてはなりません。大切なことを決断する時、教会では 必ず教会総会を招集し、そこで十分な話し合いがなされ、最終的にみことばにより示されたところに従って決議することになります。反対者がひとりでもいるならば強引に話を進めてはいけません。これはとても大切な点です。世の中は、多数決で物事が決められてしまうところがありますが教会は人数の多さではなく、聖書が何と言っているか。聖書の示す真理によって判断し、決断することが必要なのです。教会において一致ほど重要なことはありません。サタンは、一致の重要性を知っている故にあらゆる方法で教会の一致を妨害しようと働きかけてきます。教会において一致ができない背景には、みこころよりも、みことばよりも、自分の意見の絶対化があったり、自分のメンツやこだわりなどが一致を妨げている場合が考えられるのです。私たちは、いつも謙虚さを忘れずに互いの意見を冷静に受け止め合う者同士に変えられていきたいと願います。また、私たちは、先に救われ信仰の戦いをしてきた者たちです。同じようにこの世の誘惑と今戦っている兄弟姉殊に対し、上からではなく、同じ弱さをもつ人間としてみことばによる励ましを与え、共に祈り合う群れでありたいと願います。聖霊様がいつも私たちの間に共にいてくださり、聖書のみことばを通して、私たちにみこころを教えてくださることを期待して共に宣教の業に参加していこうではありませんか。ヨハネ14:12~31参照