小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

愛の実践

「精霊があなたがたの上にのぞまれるとき、
 あなたがたはちからを受けます。そして、
 ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、
 わたしの証人となります。」
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 使途1章8節

 

<愛の実践>           使途acts 11:27~30

初代教会は、愛を実践していました。なぜなら、飢饉が起きた時、エルサレム教会に献金を届けることを決断したからです。アンテオケ教会は、生まれてまもない教会でした。集う人々もそれほど多くはなかったことでしょう。しかし、彼らは多くの犠牲を覚悟で献金を用意しその献金バルナバパウロの手に委ね送り出していきます。アンテオケからエルサレムまで約5O0キロの道のりです。愛のわざは、困難を乗り越え、行動に現われます。当時、旅することは、あらゆる危険のともなうものであり、飢饉が起きている状況下、さらに危険が増すはずです。目に見える十分な護衛もなく、献金を届ける重要な使命があり、エルサレム教会の兄弟姉妹のいのちが自分たちの働きにかかっている神様の守りを祈らずには一歩も進めない状況です。
この時の状況と東日本大震災の出来事が重なります。被災地がどのような状況か分からない中、教団は、いち早く行動を起こし、献金と物資を載せ、車を被災地に走らせたのです。被災地で助けを必要としている兄弟姉妹が待っている。教団が本当に愛のある群れであるかどうかの真価が問われる事態です。この教団に所属していて良かった。当時、支援を受けた教会は、心底思ったことでしょう。そして、被災した経験のある人々は、自分たちが受けた愛のわざに感謝して同じような状況が起きたならば、今度は自分たちが支援する側になる番だと考えます。神様は、私たちに愛を実践する者になることを期待されています。神様は、ご自身で助けを必要とする人々を救うことがおできになるお方です。しかし、あえて私たちを遣わし、愛のわざを実践する機会を与えてくださるお方なのです。Iヨハネ3 :1 6~ 17参照。
エス様も、言われました 「互いに愛し合いなさい。」私たちが互いに愛し合うことは、イエス様のご命令です。従っても従わなくてもどちらでも良いものではありません。選択の余地はないのです。私たちは、目に見える兄弟姉妹を愛することにより、目に見ることのできない神様を愛していることを実証することになります。なぜなら、目に見えるところの兄弟姉妹を愛することが神様のご命令だからです。目に見える兄弟姉妹を愛する人は、目に見ることのできない神様を愛していることになります。なぜなら、愛するとは、神様のご命令に従うことだからです。神様から与えられた機会を活かし、愛の実践に挑戦してまいりましょう。

ふたつの大切な勧め

「彼らの目が開かれ、
 イエスだとわかった。」
              
                

                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ24章31節

 

<ふたつの大切な勧め>         使途acts 11:22~27

バルナバは、救われたばかりのアンテオケの兄弟姉妹に二つのことを勧めていま す。一つ目は、心を堅く保つことです。ここに勧められている心を堅く保つとは、自分の力で信仰を堅く保つように努カするようにという意味ではありません。それぞれが与えられた信仰を公にして自分の立場をはっきりと表明して生きるようにという意味なのです。初代教会の人々も、現代の私たちもこの点は、同じであると言えるのです。自分がイエス様を信じたことを公にすることはキリスト者にとってとても重要なことです。洗礼準備会でも学びますが自分がイエス様を信じたことを表明することにより、私たちはいろいろな誘惑から守られることになるのです。私たちは、自分の与えられた信仰を隠してはなりません。信仰は、私たちにとっ て宝です。これ以上にすばらしいものはありません。 なぜなら、信仰は自分を罪の力から解放するだけでなく、家族や友人や知人だけでなく時代を超えてあらゆる国の人々を罪の支配から解放してきたものだからです。そして、自分の信仰を表明して生きることにより、私たちは、さまざまな誘惑からも守られることになります。 初代教会の人々も、救われる以前の生活に戻されてしまう誘惑の多い環境に生活していたのです。偶像崇拝の盛んなアンテオケの都市です。その町に住んでいた兄弟姉殊にバルナバは、自分の信仰を表明して生活するように勧めたのです。そして、 バルナバの勧めを実行したアンテオケの兄弟姉妹は、人々からキリスト者と呼ばれるようになります。バルナバが勧めた二つ目のことは、主に留まることです。主にとどまるとは、イエス様に繋がり続けること、つまりイエス様が生きられたように生きることです。イエス様のように生きるには、イエス様がどのようなお方であり、どのように生きられたお方なのか知る必要があります。イエス様を見ると、神様が完全に義なるお方であり、同時に完全に愛なるお方であることが分かります。イエス様は、罪を憎まれましたが、罪を犯してしまう人間を愛され、ご自身を犠牲にして人間が救われる道を作ってくださったお方です。イエス様が私たちの罪を赦してくださったように、私たちもイエス様にならい、人に対し赦しのわざを実行できるように日々祈りつつ、みことぱに従って神様の喜ばれることを選択し神の子としての生活を現すものに変えていただきましょう。 

救いの宣言

「私たちは
 イエスが死んで復活されたことを、
 信じています。」
              
                

                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰテサロニケ4章14節

 

<救いの宣言>           ローマromans 4:19~25

義なる神様は、人間の罪を見逃すことができません。罪とは、創造主であられる 神様の存在を無視して自分の生きたいように生きていることです。 罪から来る報酬は死です。ローマ6:23参照。とあるように、義なる神様は、罪に対しては厳しい罰をもって報いるお方です。しかし、義なる神様は、同時に愛なるお方でもあり、人間に無理な要求はなさいません。神様は、罪人である私たちを滅びから救うために、ご自分の愛するひとり子を身代わりに差出し、罪を贖うためのいけにえとなさったのです。そして、イエス様は、罪人である私たちの罪の罰を十字架にかかり、完全に受け尽くしてくださいました。
では、仮にイエス様が十字架に架かられ死んで葬られたままだったとしたらどう でしょうか。きっと自分の罪が本当に天の父なる神様に赦されていることの確信をもつことができないでしょう。ですから、私たちは、自分の罪が赦されたのかどうかを疑う気持ちが起きてきた時にイエス様のよみがえりに目を向けることが必要なのです。イエス様のよみがえりは、天の父なる神様がイエス様の十字架の贖いの死が人類 のすべての罪を贖うのに十分なものであったことの証明として人間に与えられたものです。なぜなら、天の父なる神様がイエス様の贖いのわざに満足されなかったとしたら、イエス様をよみがえらされなかったはずだからです。そして、イエス様がよみがえられなかったとしたら、私たちの罪は赦されることなく、そのまま残ることになります。しかし、イエス様はよみがえられたのです。ですから、私たちの罪がイエス様の流された血の代価によって贖われ、私たちの罪が完全に赦されていることをイエス様のよみがえりを通して確信することができるのです。
私たちは、もう何も,心配する必要はありません。自分の救いを疑わせるようなサタンの声が聞こえてきたとしても、もはやその声に耳を傾ける必要はありません。なぜなら、天の父なる神様は、イエス様の十字架の贖いの死を受け入れられ、満足された故に、イエス様を死者の中からよみがえらされたからです。 私たちに救いの確信を与えるためによみがえられたイエス様とイエス様を死の淵からよみがえらされた天の父なる神様の御業を賛美しつつ救いの確信を新たにし主の御前に歩ませていただきましょう。