小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

ゲッセマネの祈り

「神は、実に、
 そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
 永遠のいのちを持つためである。」
              
                

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ3章16節

 

ゲッセマネの祈り>            マタイmatthew 26:36~46

エス様は、いつも神様に祈られるとき、御前にひざを屈め祈られたお方でした。 イエス様の祈る姿をいつも見ていた弟子たちは、イエス様がいつも以上に深く身を屈め、額を地に押しつけるようにして祈られる姿を見たのです。イエス様は、これから全人類の罪の罰をご自分が一身に負われることがわかっておられた故に、その使命の大きさに打ちのめされ、神様の御前にひれ伏さずにはいられなかったのです。
私たちの罪がイエス様にひざを屈めさせることになったのです。私たちは、その事実をどれほど重く受け止めているでしょうか。イエス様の苦しみを他人ごとのように考えていることはないでしょうか。イエス様が十字架に架かったのは、当時、イエス様を十字架にかけた人々の罪を赦すためである。私たちは、そのように長い間考えてきたのではないでしょうか。しかし、聖書はイエス様の十字架の死は、私たちの罪の罰を負うためであると証言しています。ヘブル9:11~12参照。
エス様は、ご自分の前に置かれた人生最大の危機に直面し、ご自分の素直な願 いを父なる神様に告げられたのです。イエス様の願いは、「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。」というものです。この「できますならば」という言葉は、「できるかどうかわからない」という意味ではなく、神様には「可能なのだから」という意味です。イエス様は、父なる神様には、この苦しみの杯を取り除くことができるはずであると確信しておられたのです。イエス様の言われた杯とは、人間の罪に対する神の刑罰であり、神から完全に見捨てられることでした。イエス様は、人類を救う別の方法があるならばそれを示して欲しいと祈られたのです。
しかし、天の父なる神様は、祈りの中でご自身の計画をイエス様に明らかにされ、イエス様がそのご計画に従うことを求められたのです。神様のご計画に従うというイエス様の決意は、祈りを通して不動のものと変えられていきます。45、46節参照。イエス様の言葉には、もう何の迷いもありません。勝敗は、戦う前に決まっていたのです。祈る者は、勝利し、祈らない者は敗北を経験することになります。なぜなら、この後、弟子たちはイエス様を裏切り、逃げ出して行くことになるからです。
私たちも祈らずに誘惑に勝てる者ではありません。いつも、祈りつつ神様から力をいただき神様のみこころに従って行くことを選択されたイエス様の姿を思い巡らしながら、自分の願いよりも、天の父なる神様のみこころがなされていくことを心から望む者に変えてくださいと御前に祈る者になっていきたいと願います。 

主の御手に頼りつつ

「キリストは罪を犯したことがなく、
 その口に何の偽りも見いだされませんでした。」
                

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰペテロ2章22節 

 

<主の御手に頼りつつ>              使途acts 11:19~21

ステパノの殉教をきっかけにキリスト者に対する迫害が強まり、エルサレムを離れた弟子たちは、逃亡した先々で伝道し続けます。初代教会の人々は、逞しく何度妨害されても宣教することを止めるどころか増々、イエス様の死と復活の意味を証していったのです。試練は、自分から求めるべきものではありませんが、神様は私たちにとって試練が必要であることを知っておられ、ある期間、私たちが試練の中に留まることを良しとされるお方であることも覚えたいと思います。初代教会の人々も、信仰の戦いを経験していたことが26節から伺い知ることができるのです。26節参照。
アンテオケにおいて弟子たちは初めてキリスト者と呼ばれるようになります。キリスト者という呼び名は、ニックネームのようなものです。「キリスト者」とは、原語で「クリスティアノス」と言い、キリストの奴隷という意味があります。 初代教会の人々は、偶像崇拝に関係する行事に誘われる度に自分はキリストを信じたから、それらの行事に参加できないと断っていたのです。ですから、人々は彼らがいつも「キリスト」、「キリスト」と言って誘いを断ることからキリストの奴隷と同じだと彼らをクリスティアノス (キリストの奴隷)すなわちキリスト者と呼ぶようになったのです。また、初代教会の人々は、感謝と喜びに満ちて、宣教の業に励んだことでしょう。救いの喜びに満たされると人は驚くほど大きな力を発揮するものです。私たちの一番の喜びは、罪が赦され、罪の力から解放され、真の自由をいただいたことです。聖書は、私たちがイエス様を信じた時、新しく造りかえられたと断言しています。Ⅱコリント5:17参照。このみことばからイエス様を信じた時、私たちはイエス様と一緒に十字架に架かり、私たちの自我も共に死んだことが分かります。そして、イエス様が復活された時、私たちもイエス様と一緒に復活し、イエス様に従って生きる者と変えられた者たちなのです。自覚していなくても、みことばがイエス様を信じる者は新しくされた者であると断言しています。ですから、救われる以前の肉の思いに従って生きることをやめ、御霊に従って生きることを、選択していく者になりたいと願います。
私たちが、心から御霊に信頼する者となり、御霊の命じることを実行する時、そこに御業が実現していくのです。私たちの愛する家族が救いに導かれ、共に同じ神様を礼拝する者と変えられていくのを見させていただこうではありませんか。人間を救うのは、私たちの力ではありません。主の御手が私たちの上にある時にそこに御業が実現されていくのです。神様は、私たちを用いてくださるお方です。私たちが心から神様を信頼し、神様の約束を信じてみことばに従って生きる時、そこに神様が奇跡を現してくださいます。異邦人がまことの神様に立ち返って救われたように、家族がまことの神様に立ち返る日が来ることを期待して主の御手に頼りつつ宣教の業に参加して行こうではありませんか。

信仰の本質とは

「父がわたしにくださった杯を、
 どうして飲まずにいられよう  」

                   f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ18章11節

 

<信仰の本質とは>              使途acts 11:1~18

ペテロは、自分が異邦人のところに行ったことを兄弟姉妹に非難されると自分の 行動について冷静に説明していきます。確かに、ペテロのしたことは神様から与えられた律法に反することでした。しかし、律法で規定されていた異邦人との交わりの禁止命令は、すでにイエス様の十字架の贖いの業により解除されたのです。エペソ2 : 8~19参照。
エス様は、ユダヤ人と異邦人との間にあった見えない壁を打ちこわし、すべての人に福音が宣べ伝えられ、救われる時代が訪れました。しかし、すべての人に救いが及ぶことははじめから神様のご計画の中に含まれていたものだったのです。ただ、福音が伝えられる順番があったことを覚えたいと思います。まず、イスラエルの民に福音が届けられなければなりませんでした。その後、異邦人に福音が届けられ、異邦人の救いを見たユダヤ人が神様に立ち帰り、救いに導かれるという神様のご計画があったのです。ペテロは、神様から幻を通して異邦人のところに行くようにと示されると聖霊の声に従って行動していきます。ここに信仰の本質を見ることができるのです。ペテロは、自分の頭で考え納得したから異邦人のところに行ったわけではありません。彼のうちには異邦人に対する差別意識が根強く残っていました。 神の選びの民である誇りもありました。エルサレム教会の指導者としての立場もありました。しかし、それらのことよりも神様がお命じになられることを優先し行動していったのです。ペテロは、神様が異邦人にも自分たちに与えてくださった聖霊を送られたのだからそれが神様のみこころであると「アーメン」と言って受け入れたのです。これが信仰の本質なのです。
私たちもぺテロと同じだったはずです。イエス様を信じた時、すべてのことが分かっていたわけではありません。聖書に書かれてあることをすべて理解し納得したから洗礼を受けたわけではありません。信仰告白とは、聖書に書かれていることに対し同意することを意味しています。告白という言葉は原語でホモロゲオーといい、「同じことを話す」「同 意する」という意味になります。ですから、告白は、主観的な自分の信念ではなく、 聖書がイエス様を神の御子であると証言していることに対し「はい」と応答することが信仰告白となります。
自分は果たして信仰告白をした者としてふさわしい生き方を選択しているだろうか。ぺテロは、異邦人のもとに行くことを当然ためらったはずです。しかし、彼は自分の考えよりも神様のご計画に従う方を選択したのです。
目先の利益や苦難に目を奪われることなく、もっと先を見て自分たちのなすべきことが何なのかを選択する者になりたいと願います。
朽ちることのない冠をいただくことができる者は、信仰の故に生じる迫害と戦った者だけです。イエス様にお会いした時によく戦ったね。あなたにいのちの冠(黙示録2 :10)を与えようと言っていただけるように日々、自分の行動を祈りつつ選択していこうではありませんか。