光の中を歩む
「神は私たちを救い、また、
聖なる招きをもって召してくださいましたが、
それは私たちの働きによるものではなく、
ご自分の計画と恵みによるものでした。」
Ⅱテモテ1:9
<光の中を歩む> Ⅰヨハネ1:10
「真実な礼拝」とはどのようなものでしょうか? 神さまの臨在を感じて、敬虔な畏れと喜びに包まれる経験とか。あるいは、みことばの解き明かしを受けて、まさに神さまが自分に語りかけてくださったと受け止め、厳粛な思いにさせられると共に、主の御心を知り、平安と感謝の思いに包まれるような経験もあるでしょう。そして、その喜びを賛美や祈りをもって神さまの御前に表わし、主の御名を崇めるのです。
そのようにして、私たちは、確かに主はこの礼拝のただ中に臨在されることを体験し、私たちは「御父また御子イエス・キリストとの交わり」(3節)にあずかるのです。 その交わりは「光」という神のご性質に包まれる交わりでもあるのです。
では「光」とは、どのような状態を指しているのでしょうか。そのヒントとなる言葉が2章9~11節に記されています。「光の中にとどまる」とは兄弟を愛すること。逆に「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいる」と言われているのです。そのような状態では、光である神との交わりの中にとどまることはできません。それぞれに自分の心を点検してみましょう。誰かに対する悪い感情を抱え込んだままになっていないか。人を裁き、赦せないでいることはないか。そのような心のまま歩んでいるなら、その人はやみの中を歩んでいて、神との交わりにあずかることはできず、そんな自分の状態さえも気づかずにいるかもしれません。
しかし、神との交わりにあずかるには、一切の罪を克服しなければならないのかと言うと、そうではありません。8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」と言われています。むしろ、私たちは神の光に照らされて、自らの罪を示され悔い改めを迫られるのです。しかし、私たちが自分の罪を率直に認め、それを告白し赦しを請うならば、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
そこに生み出されてくるのが、キリストの十字架の愛を受け、罪の赦しときよめの恵みにあずかった者同士としての愛の交わりなのでしょう。キリストの愛を受けた者同士が愛し合い、罪の赦しを受けた者同士が赦し合う。それは平安と喜びに満ちた幸いな交わりです。