小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神礼拝の発展

「あなたは
 わたしを見たから信じたのですか。
 見ずに信じる者は幸いです。」              

                     f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ20章29節

 

<神礼拝の発展> 使途7:1~16

ステパノは、弁明する機会が与えられるとその場を活かし、まことの神様がどのようなお方であるかを人々に思い出させようとしています。なぜ、ステパノはまことの神様がどのようなお方であるかを語る必要があったのでしょうか。

人々は、ステパノが「聖なるところと律法とに逆らうことばを語るのをやめません。」6:13と訴えられていたからです。確かに、ステパノの弁明を見ると彼がエルサレム神殿における礼拝を軽視しているように誤解されても仕方のないところもあります。「しかし、いと高き方は、手で造った家にはお住みになりません。」使徒7:48

ステパノが神殿における礼拝を否定したのは、イエス様が宮きよめをされた理由と重なります。どんなに立派な神殿でどんなに多くの捧げものがなされても、罪の悔い改めのない礼拝であるならば何の意味もありません。神の御子であられるイエス様が立ち去られた神殿にはもはや何の価値もありません。中味のない礼拝、形式だけの礼拝がなされていることに対し、ステパノは礼拝の対象であられる神様がどのようなお方であるかをイスラエルの歴史を振り返りつつ確認していきます。イスラエルの歴史は、先祖のアブラハムに遡る必要があります。2~7参照。

アブラハムは、神様からカルデヤ人の地を出ることが命じられたのです。まことの神様を礼拝しない人々の住む地を離れることを神様は、アブラハムに求められ、彼はその命令に従って行動します。神様は、信仰によって神様の命令に従って行動するアブラハムを祝福され、彼が約束の地に入ることを許されます。アブラハムは、約束の地を自分の勝手な判断で離れ、失敗することを繰り返しますが神様は彼の罪を赦し、彼の子孫が約束の地において礼拝する民となることを約束されたのです。その約束通り、エルサレムにおいて礼拝が捧げられるようになっていった歴史があります。8~16参照。

ステパノの弁明を通し分かることは、神様は聖所と呼ばれる一つの場所に拘束されるようなお方ではなく、儀式や習慣に束縛されるような方でもなく、イスラエルの民を自由に導き、自由に救われるお方だということです。そして、神様を礼拝する形や方法も発展してきた経緯がありました。ですから、聖霊の時代に生かされている私たちは、聖書からまことの神様をどのように礼拝することがふさわしいのかを学び、神様から与えられた霊によって、神様に受け入れられる礼拝をささげる者に変えられていきたいと願います。