小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

良くて美しいこと 飯田 仰 師

「私が仕えているイスラエルの神、 
 主は生きておられる。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰ列王 17:1

 

<良くて美しいこと>     マルコ14章1−11節

 マルコ第14章の冒頭ではイエス様の敵とイエス様の味方という二つのコントラストが記されています。イエス様に敵対する人たちが今朝の箇所の最初と最後に登場します。その間に名前の記されていない女性が比較される形で記されています。
 ユダはお金を受け取ることと引き換えにイエス様のことを裏切りました。ここまでそれほど目立つことのなかったユダですが、突然ここに現れます。マルコ第14章とは、イエス様の伝道の働きから言えば、あまり上手くいっていない時であったと言っても良いかもしれません。このままこのお方に従って良いのかとの疑念がユダの中に生じたのかもしれません。イエス様が本当にメシアであるならば、ファリサイ派や律法学者たちと同盟を組んだ方が良いのではないか。このままだと自分の生命も危ういのではないか。従うだけの価値が本当にあるのだろうか。そのような考えが脳裏をよぎったのかもしれません。ユダは明確な答えを出すことになります。
 一方で、このユダと正反対であったのがベタニアで高価な香油をイエス様に注いだ女性でした。彼女は非常に高価な香油をイエス様に全て捧げました。それは誰もがもったいないと思った行為でした。しかし、イエス様は異なる応答を示されました。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。」(6節)。イエス様がここで「良いこと」とおっしゃっている言葉は二通りに訳すことができます。
「良いこと」と「美しいこと」と。一つの言葉で「良くて美しいこと」を表現するのは興味深いことです。「良くて美しいこと」というのは直ぐに理解できることではないようです。皆が「もったいない、なんでこんなことをするのか」と憤慨したことをイエス様は「良くて美しい」と評価なさいました。しかも、これはご自身の埋葬の準備のためだとおっしゃり、福音が宣べ伝えられるところで記念として語り伝えられるとおっしゃるのです。なぜでしょうか。この女性が行ったこととイエス様ご自身の十字架とを関連付けて私たちに見るようにと示唆しているのではないでしょうか。
この女性は自分のもっている最高のものをイエス様に捧げました。もしそうだとしたら、イエス様が十字架で私たちの罪のために身代わりとなって死んでくださったのはどれほど良くて美しいと言えるでしょうか。聖書はそう私たちに呼びかけます。

 

光の中を歩む

「神は私たちを救い、また、
 聖なる招きをもって召してくださいましたが、
 それは私たちの働きによるものではなく、
 ご自分の計画と恵みによるものでした。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅱテモテ1:9

 

<光の中を歩む>     Ⅰヨハネ1:10

 「真実な礼拝」とはどのようなものでしょうか? 神さまの臨在を感じて、敬虔な畏れと喜びに包まれる経験とか。あるいは、みことばの解き明かしを受けて、まさに神さまが自分に語りかけてくださったと受け止め、厳粛な思いにさせられると共に、主の御心を知り、平安と感謝の思いに包まれるような経験もあるでしょう。そして、その喜びを賛美や祈りをもって神さまの御前に表わし、主の御名を崇めるのです。
そのようにして、私たちは、確かに主はこの礼拝のただ中に臨在されることを体験し、私たちは「御父また御子イエス・キリストとの交わり」(3節)にあずかるのです。 その交わりは「光」という神のご性質に包まれる交わりでもあるのです。
 では「光」とは、どのような状態を指しているのでしょうか。そのヒントとなる言葉が2章9~11節に記されています。「光の中にとどまる」とは兄弟を愛すること。逆に「兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいる」と言われているのです。そのような状態では、光である神との交わりの中にとどまることはできません。それぞれに自分の心を点検してみましょう。誰かに対する悪い感情を抱え込んだままになっていないか。人を裁き、赦せないでいることはないか。そのような心のまま歩んでいるなら、その人はやみの中を歩んでいて、神との交わりにあずかることはできず、そんな自分の状態さえも気づかずにいるかもしれません。 
しかし、神との交わりにあずかるには、一切の罪を克服しなければならないのかと言うと、そうではありません。8節に「もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。」と言われています。むしろ、私たちは神の光に照らされて、自らの罪を示され悔い改めを迫られるのです。しかし、私たちが自分の罪を率直に認め、それを告白し赦しを請うならば、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。
そこに生み出されてくるのが、キリストの十字架の愛を受け、罪の赦しときよめの恵みにあずかった者同士としての愛の交わりなのでしょう。キリストの愛を受けた者同士が愛し合い、罪の赦しを受けた者同士が赦し合う。それは平安と喜びに満ちた幸いな交わりです。

すべてを益としてくださる神

「主があなたがたを赦してくださったように、 
 あなたがたもそうしなさい。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  コロサイ3:13

 

<すべてを益としてくださる神て>     ピリピ1:12~14

 「禍を転じて福となす」という言葉があります。パウロの体験してきた迫害の数々は、人間的な視点でみると福ではなく、禍です。しかし、パウロは知っていたのです。自分の置かれている状態が必ず、益となる日が来ることを彼は何度も体験し、信仰の目で今の自分の置かれた状況を見ることができ、困難な状況を肯定的に受け止めることができたのです。
 今朝、私たちはパウロが困難の中で目を向けた二つの御業について考えてみたいと思います。一つ目は自分が投獄されたことで通常福音が伝えられない人々に救いのチャンスが提供されることになったことです。パウロは投獄された後、いつものように牢の中で伝道します。パウロの宣教スピリットは場所を選びません。どこであろうと大胆に勇気をもって福音を伝えたのです。パウロは自分が何のために投獄されたのか。親衛隊の全員に証したのです。さらに、囚人の中にも救われる人々が起こされたのです。<br>
二つ目の御業は各教会のキリスト者たちが大胆に宣教する者になったことです。パウロが投獄された知らせは、彼が宣教した各地域の教会に伝えられたことでしょう。パウロの投獄を知ったキリスト者たちは、彼のために真剣に祈り、パウロの身の安全と彼が一日も早く解放され自由の身となることを心から願ったはずです。そして、投獄の知らせを受けたキリスト者たちのうちに宣教に対する情熱が湧き上がったのです。パウロ先生が捕らわれてしまった以上、今度は、自分たちが出て行き、福音を知らせなければならない。キリスト者の先頭に立ち、宣教してきたパウロの投獄は、キリスト者たちの宣教に対する情熱を消すことにはならず、逆に彼らに励ましと勇気を与え、迫害を恐れることなく、大胆に福音を宣べ伝える人々を生み出すことに繋がったのです。そして、一番重要なことは、人々が迫害を恐れずに大胆に福音を宣べ伝えられたのは聖霊(神の第三位格)の力によるという事実です。
 神を愛するとは、神の命令に従うことです。聖霊から力と勇気と励ましと慰めをいただき神のご命令に従う時、すべての事が益に変えられます。(ローマ8:28参照)これはキリスト者だけに与えられた特権です。パウロの投獄という禍が人々の救いにつながったように、私たちの今置かれている状況が人々の救いのために神が良しとされる最善のものであると受け止めなおし、自分がキリスト者であることを公にし、福音を伝える特権に与る者に変えていただこうではありませんか。(Ⅱコリント4:15~18参照)