小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

キリスト者の喜び

「いつも主にあって喜びなさい。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ピリピ4:4

 

<キリスト者の喜び>     ピリピ1:15~18

 パウロが投獄されることを悲しむキリスト者たちがいた一方で喜ぶキリスト者たちもいたのです。同じキリスト者同士でありながら宣教する者の投獄を喜ぶとはどういう事なのかと不思議に思われる方もおられるでしょう。でも、それが現実なのです。パウロの投獄を喜んだキリスト者たちは霊的にまだ幼く、パウロが投獄されたことで自分たちの教会に加わる人々が起こされることを期待するところがあったのです。
それにしても、同じキリスト者から敵意を抱かれるパウロとはどのような人物だったのでしょうか。そうです。パウロも弱さを持つ人間でした。人に恨まれたり、誤解されることをしてきた者でした。なぜなら、彼は救われる以前、キリスト者を迫害する者だったからです。彼に苦しめられいのちを奪われた人々も沢山いました。しかし、神様はそんなパウロを異邦人宣教の為に福音を運ぶ器に選ばれたのです。これは私たちにとっても大きな慰めであり励ましです。なぜなら、福音を運ぶ器がどうであれ、その伝えられた福音の内容が正しければ人々は救われるからです。
 私たちが福音を伝える時、その働きを妨害する者も必ず現れます。パウロも多くの迫害を受けました。しかし、そこで自分の置かれている状況や自分に対し敵意を抱く人々に対して怒りを覚えたり失望し落胆するならば私たちの心は強迫観念や猜疑心や自己憐憫にとりつかれ自由を奪われることになりかねません。ですから、私たちは自分や人に目を向けることをやめ、イエス様ご自身と福音宣教に目を向け、何を第一にしたらよいのかを選択する者にならなければなりません。パウロはその意味で自由でした。彼は福音が宣べ伝えられ、それで救われる人々が起こされるならば自分がその為に犠牲になっても、それでいいと考えたからです。
 福音宣教は最優先されなければならない最重要事項であり、福音が広く宣べ伝えられることを神様は何よりも喜んでおられます。なぜなら、神様の喜びは、すべての造られた者に福音が届けられ福音を受け取った人々が救われることだからです。キリスト者の喜びも、神様が喜ばれることを自分の喜びとする時に与えられる喜びです。私たちも、パウロのように状況に左右されない喜びもつ者に変えられ、みこころだけがなることを信じ、福音をみことばの種を喜んで蒔き続ける者になりたいと願います。

 

健全な愛の成長を目指して

「愛は寛容であり、愛は親切です。
 また人をねたみ ません。
 愛は自慢せず、高慢になりません。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  Ⅰコリント13:4

 

<健全な愛の成長を目指して>    ピリピ1:9~11

 愛が健全に成長するために必要なもの、それが「知識」と「識別力」です。どうして、愛が健全に成長するためには「知識」が必要なのでしょうか。それは知識を無視した愛は、盲目的な愛、感情的な愛にすぎないからです。盲目的な愛は、親子の間では子どもの独立心を奪い、親に対して依存心の強い子どもにしてしまうことがあります。ですから、知識が必要なのです。
 パウロが祈り求めた知識は、上より与えられる知識です。その知識とは、啓示の言葉である聖書です。しかし、聖書知識を沢山蓄えても正しい識別力(判断力)がなければ有効に用いることができません。イエス様を信じ、霊的に新しく造り変えられ、正しい判断力を与えられ、何が本当に価値あるものなのか。判断できる者に変えられます。その知識と判断力を得るとありがちなのは、自分が以前より偉くなったように錯覚し傲慢になることです。傲慢から身を守る為には、純真さを失わない事です。純真さを持ち続けるには、常に学び続ける謙遜さが必要です。私たちはこの地上の生涯が終わるまで絶えず、成長し続ける者として造られた者であることを覚えたいと思うのです。もう聖書に書かれている真理をすべて知ったと思った時から私たちの成長はそこで止まり、停滞するだけでなく、そこから後退がはじまります。ですから、私たちは、常に前に向かって新しく造り変えられ続け、成長することを追い求め、イエス・キリストによって与えられる義の実に満たされ続けることを心から願う者でありたいと思います。その義の実とは愛の実(ガラテヤ5:22~23)です。
 イエス様は、弟子たちに互いに愛し合うようにと繰り返しお命じになられました。それは弟子たちが互いに愛し合っていなかったからです。弟子たちは、互いに誰が一番偉いかとイエス様が十字架に架けられる直前まで言い争っている者たちでした。私たちはどうでしょうか。残念ながら人間のうちにはもともと神に対する愛も人に対する愛もありません。本当に人を生かす愛は、十字架に現わされた神の愛(無条件の愛)だけです。その愛を注がれた者であることを思い出し、受けた愛で自分を愛し、人を愛する者に変えていただこうではありませんか。
 私たちが聖書に親しみ、みことばを学び続け、みことばに従って行動し、互いに愛し合うことを学ぶ者になる時、そこに愛の実が結ばれ、神の栄光と誉れが現わされることになるのです。

確信して祈る者になる

「少しもはばかることなく、
 また妨げられることも なく、
 神の国を宣べ伝え、
 主イエス・キリストの ことを教えた。」
                

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  使徒 28:31

 

<確信して祈る者になる>    ピリピ1:3~8

 パウロは、福音を宣教することで捕らわれの身になったことを消極的な面から捉えることなく、逆に積極的な面から自分が置かれた状況を捉え、感謝しています。パウロは、いつも自分の過去と現在から未来を見据え、神様に感謝し祈り確信に導かれた人です。パウロは、ピリピで宣教した当時のことを振り返り、神様が成された救いの御業を覚え、感謝したのです。パウロは、今、投獄されて自由を制限されています。しかし、自分に起こったことを消極的にではなく、積極的に受け止めることができました。なぜなら、パウロはかつてピリピで同じような経験をしていたからです。使徒16:16~24参照。パウロたちの投獄は、その獄舎の看守とその家族の救いに繋がりました。同じようにパウロたちが今投獄されていることで救われる人々が彼らの周りから起こされていました。また、パウロは自由に動いて宣教していた時、移動時間に時間を奪われ、祈りに当てる時間が僅かしかもてなかったはずです。しかし、捕らわれの身になることで自由に移動できない分、その時間を祈りに当てることができるようになったのです。これは宣教にとって一番重要なことです。
 私たちもそうですが教会に一番必要なものも祈りです。沢山の人に福音を届けるために時間を使うことも必要です。しかし、どんなに沢山の人に福音を伝えても伝えっぱなしで伝えた方のためにとりなし祈らなければ本来の目的を果たすことはできません。パウロは、自分が宣教した人々のためにいつも祈っていました。一人一人の名を挙げてとりなし祈っていたはずです。パウロもとりなし祈られていました。
 キリスト者の特権は今、置かれている状況が困難なものに思われても、その状況がキリストのために苦しむことであるならそれは神様からの恵みとして受け取ることができることです。なぜなら、イエス様の十字架の苦しみが私たちの救いとなり、パウロたちの受けた苦しみが異邦人たちの救いのために用いられていったからです。同じように私たちが今経験している苦しみが家族や友人や知人の救いに用いられる時が必ずきます。最後まで耐え忍ぶことができるように互いに執り成し合い励まし合い声を掛け合いながら一歩ずつイエス様の後に従って大胆に確信をもって祈る者に変えられてまいりましょう。