小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

救われた後の私たち

「恐れてはならない。しっかり立って、
 今日のあなたがたのために行われる
 主の救いを見なさい。」
              

                                                    f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト14:13

 

<救われた後の私たち>      エペソ2:4~7

 パウロは、救いに与った後の私たちの状態を教えています。今日は、3つのことについて確認してまいりましょう。
① 霊的に死んでいた者がキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらされた。すべての人はアダムにある者として地上に誕生しますがキリストにある者になるには、信仰が必要です。その信仰を私たちは恵みによっていただくことができた者たちなのです。では、恵みによっていただいたものについて考えてみましょう。
② それは悪魔の支配下から聖霊支配下に移されたことです。パウロは、前回、救われる以前の私たちが悪魔の支配下に置かれていたことを記しましたが今、私たちはその悪魔の支配下から自由にされ、悪魔の誘惑に勝利できる者と変えられています。これは死からいのちへ変えられたと言ってもよいほどの大きな変化です。
③ キリストと共にすべてを支配する者と変えられた。キリストが十字架に死に、3日目によみがえられ、弟子たちに現れた後 、天に凱旋し、キリストは神の右の座にお着きになられたのです。そして、その時、私たちもキリストと共に霊的に神の右の座に着き支配者となったとパウロは教えています。これは実に驚くべきことです。神様から呪われた者、滅ぼされても何も文句の言えない者であった私たちが救いに与ると、その立場は180度変えられ、のろいではなく祝福をいただき、死からいのちに移され、神の国の民とされ、御国の相続者とされ、御国で支配する者と変えられていると言っているからです。
 これらの祝福をいただいている自覚があるでしょうか。この世の心遣いで心を一杯にし、肉の欲望のままに生きている場合ではありません。折角、神様からいただいたいのちです。日々のみことばの供給がなければそのいのちは栄養不足になり、元気を失います。逆に、みことばの糧を自分の霊に供給し続けるならば元気を取り戻し、活発に活動し始めます。
 パウロは、常に宣教の情熱とキリストの愛に満たされていました。彼の原動力の源は、みことばです。みことばと共に働いて下さる聖霊様の力によってパウロは迫害に屈することなく、大胆に福音を宣べ伝え続けることができたのです。同じ力と愛を私たちもいただくことができます。なぜなら、私たちは信仰によってキリストと一つにされ、死からいのちに移された者として、将来、御国で支配者となる者たちだからです。ですから、その日に備え、今、自分が所属する教会に仕え、兄弟姉妹に仕え、これから救われる人々に喜んでお仕えする者になろうではありませんか。

 

救われる以前の私たち

「その血は、あなたがたのいる家の上で、
 あなたがたのしるしとなる。
 わたしはその血を見て、
 あなたがたのところを過ぎ越す。」
              

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト12:13

 

<救われる以前の私たち>      エペソ2:1~3

 救われた後の状態を正しく認識する最も良い方法は、過去の状態と今の状態を比較することです。パウロは、エペソの教会の兄弟姉妹の救われる前の状態を思い出させることにより、今の状態がいかに恵まれた状態なのかを思い出させようとしたのです。
 パウロはまず、私たちがかつて自分の犯した違反と罪の中に死んでいた者であると述べています。この違反という言葉は、道を踏み外すという意味があります。つまり、人生のただしい道からはずれて歩んでいる人の姿を現しているのです。また、罪と訳されている言葉には、的外れという意味があります。アダムが神様の命令に背いた結果、人間は神様に対して誤った応答をする者になりました。不信、反逆、自己中心、これが罪の本質です。この違反と罪が現わす言葉の状態が救われる以前の私たち人間の姿なのです。
 二つ目は、空中の権威 をもつ支配者(悪魔)に従って歩んでいた者であると教えています。悪魔は私たちの目で見ることはできませんが私たちが生活しているこの世界を支配している存在です。私たちはかつて悪魔の支配下におかれ悪魔の誘惑に負け罪を犯し続けてきた者たちであったことを忘れてはなりません。最後に、パウロは私たちが自分の肉欲に生き、肉とその思いのままを行って…生まれながら御怒りを受ける子らであったと述べています。アダムから罪の性質を受け継いでいるすべての人間は、罪のために、神との人格的交わりを失い、霊的に死んだ状態にあり、みこころを行うことができません。そして、この世の支配者である悪魔の支配下に置かれ、肉欲の虜になっている状態だとパウロは教えているのです。
 パウロもかつて肉欲の虜になって、キリスト者を撲滅させるために躍起になっていた人でした。 私たちもかつて生まれながらに罪の性質をもっている為に、神の命令に背くことしかできない者たちでした。霊的にも、死んだ状態にあり、聖書に書かれてある真理を正しく受け止めることができず、悪魔の誘惑に打ち勝つこともできない無力な者たちでした。神は、私たちの心の中までもご覧になられ私たちの犯している罪に対し怒りをおぼえられるお方です。ですから、私たちは、いつ滅ぼされてもおかしくない状況から恵みによって贖い出された者たちなのです。受けた恵みを感謝しましょう。
 救われる以前の私たちと同じよう に自分の置かれている状態の悲惨さに気づかずに滅びに向かって歩んでいる人たちが沢山 います。彼らの救いのために自分にできることはないか。真剣に祈り求める者になりたいと願います。

キリストのからだである教会

「わたしは主である。」
              

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 出エジプト6:2

 

<キリストのからだである教会>      エペソ1:20~23

 今日の聖書箇所には、神の全能の力によって御子が死者の中からよみがえられたことが述べられています。そして、よみがえられた御子と教会の関係について教えられていきたいと思います。
 まず、覚えたいことはよみがえられたキリストが、天において神の右の座に着座され、すべてのものをご支配されておられるという事実です。次に、大切なことは、よみがえられた御子と私たちの関係です。パウロは、教会を一つのからだに譬え、そのからだのかしらがキリストであると言い、そのキリストの命令に従って私たちがそれぞれに与えられた賜物を活かし働き、教会の使命を果たすことができることを教えています。
 教会の使命とは、全世界に出て行き、福音を宣べ伝えることです。私たちがそれぞれ生活している場所が福音を宣べ伝える宣教地となります。私たちは、キリストから派遣された宣教師として、それぞれの家庭や職場や地域で福音を証することが期待されています。そして、パウロが教会をからだに譬えている意味をもう一度覚えましょう。私たちの体は、みな繋がっています。自分のからだの一部が怪我をした場合、その怪我の痛みは、からだ全体に及びます。同じように、同じ教会に所属する兄弟姉妹の誰か一人が肉体的に霊的に弱っているならば、無関心でいることはできません。ですから、互いに声を掛け合い、相手の肉体的、霊的な必要に関心をもち、とりなし祈ると共に自分にできることがあれば犠牲を惜しまずに行動する一人一人でありたいと願います。また、互いのために日々、祈る者になりたいと思うのです。互いに祈り合う者になるには、時間を共有することが必要です。折角、神様が同じ教会に属する者としてくださった者同士、互いの必要を覚え、祈り合う群れでありたいと思います。教会の祈祷課題を祈るだけでなく、共に集まり、祈る時間をもちましょう。祈りは、祈る者が一番祝福されるのです。なぜなら、祈っている間、その人は天の父なる神様と繋がり、祈りを取り次いでくださるイエス様と繋がり、みここを教えてくださる聖霊様と繋がることになるからです。そして、主の御名によって集まる教会に主は臨在してくださり、主の御名によって心を一つにして願い求める祈りに、主は必ず答えてくださるのです。マタイ18:18~20参照。
是非、主が共に居てくださる恵みに与る体験をこれからも共に味わい分かち合う主にあって一つからだとされた群れでありたいと願います。