小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神が人に問われること

「あなたはわたしを見たから信じたのですか。
 見ないで信じる人は幸いです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ20:29

 

<神が人に問われること>     使途23:12~24:27

 パウロを殺そうと誓う暗殺集団は、40名に増えていました。人間的に見るならばパウロは絶対絶命のピンチです。12~15参照。しかし、すべてをご支配されておられる神様は、パウロに約束したとおり、彼のいのちを守られます。16 ~18参。パウロの暗殺計画を知らされた千人隊長は、敏速に支持を与え、パウロをその日のうちに極秘に総督のもとに護送する手配を整えさせます。19~24参。千人隊長は、パウロを総督のもとに送るに当たり丁寧な手紙を用意します。25~30参。パウロは約100キロの道のりを馬に乗り安全を移動することになったのです。そして、総督の前における裁判がはじまります。24:1~21 参。総督ペリクスは、実に悪賢い策略家でパウロが無実であることを知っていな がらユダヤ人のご機嫌をとるためにわざと裁判を延期し続けたのです。正義を行 う立場に置かれた総督でありながら、彼はその職務に対し不誠実な態度をとり自 分の利益だけを考えて行動したことが分かります。
 パウロは、総督から何度も呼 び出され、為政者に直接、福音を語る機会が与えられます。24~27参。闇の中で罪を犯し続けている人間が一番恐れるものそれは光です。自分の罪を明らかにする光を罪人は恐れます。ペリクスは、罪を悔い改めるチャンスが何度も与えられながらそのチャンスを活かすことができずに時間だけが過ぎ去ります。
 私たちもぺリクスと同じです。なぜなら、私たちも、頑なに福音を拒んできた者たちだからです。はじめて教会に行ってから信仰告白に至るまで長い間、私たちは、イエス様との関係を傍観者の立場に留まることを自分の意志で選択してきました。天の父なる神様の人間に対する愛は、十字架のキリストに完全に現わされています。愛するひとり子を犠牲にしてまで人間の罪を赦し、人間が神様との交わりを回復できる道を備えてくださっているのにそれをいただこうとしないのは人間の責任です。
 神様は、すでに罪を犯す人間に対する怒りを宥められています。 なぜなら、人間の犯す罪の罰は、すでにイエス様が十字架に架かることにより受けてくださったからです。ですから、もう裁きを恐れて逃げ隠れしなくてよいのです。イエス様の十字架の下にひざをかがめ、イエス様が成してくださった御業をただ感謝して受け取るだけでいいのです。あなたはすでに天の父なる神様から受け入れられています。みことばの約束を信じ、大胆に御座に近づきましょう。ヘブル4:15~16参。

主の御声を聞いたならその時、心を開き、主を心の王座にお迎えましょう。それがあなたに神様が問われることなのです。

主の励まし

「このイエスを、神はよみがえらせました。
 私たちはみな、そのことの証人です。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 使途2:32

 

<主の励まし>      使途22:22~23:11

 パウロは、自分がローマ市民であることを明らかにすることにより議会で弁明する機会を得ます。神様は、約束どおりパウロを用いられ福音がユダヤ人だけでなく、異邦人にも宣べ伝えられる時代が訪れたことを世に証する者となりました。
 パウロは、ユダヤ最高議会のメンバーの前で彼らを恐れることなく大胆に振る 舞います。1節参照。パウロの言葉に大祭司であったアナニヤは、機嫌を悪くしパウロの口を打つように命じます。しかし、パウロは不当な扱いに対し抗議しア ナニヤを非難します。3~5参照。さらに、議会のメンバーにパリサイ派に属する人々とサドカイ派に属する人々がいるのを見て、自分が訴えられている内容が死者の復活に関することであると説明したのです。復活問題は、パリサイ派サドカイ派の間にあった意見の相違から激しい論争に発展し、議会で取り調べることは不可能となり、パウロの身柄は安全のために一時、兵営に移されます。6~10参照。
 パウロは、議会の席で大胆に振る舞っていましたが兵営の中に戻ると緊張が解れ、ほっとしたのでしょう。これからどうなるのか不安な気待ちになったのかも知れません。気落ちしたパウロに主は現れてくださり、彼を励まされたのです。

「勇気を出しなさい。あなたは、エルサレムでわたしをあかししたように、ローマでもあかしをしなければならない。」
パウロは、この主の言葉に励まされます。自分のしてきたことは間違っていなかった。たとえ、福音に耳を傾ける人がいないように思われる厳しい状況でも、自分の語る証を聞いた人々の中から一人でも悔い改めて神に立ち返る人が起こされるならばそれでよいのだと、先の見えない状況の中にも希望を見出し、大胆に福音を語る勇気が与えられたのです。そして、何より主が自分を使徒として任命してくださり、これからローマに行って同じことを語る使命が与えられていることをパウロは再確認します。主に励まされたパウロは、後に同労者のテモテを励ます人になります。「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。」Ⅱテモテ4:2参照。
 神様は、パウロだけでなく、私たちにも同じように聖書のみことばを通して語りかけてくださっています。「勇気を出しなさい。」たとえ、福音を受け入れる人々がすくなくてもあきらめずに語り続けるように。どのように自分がキリストに出会い、救いに与ることができたのか。どのような者に変えられたのか。日々の生活の中で証をする機会が与えられるように祈り続け、証し続けるようにと励ましてくださるのです。

いのちの宣言

「ここにはおられません。
 前から言っておられたとおり、
 よみがえられたのです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ28:6

 

<いのちの宣言>      ヨハネ11:1~6 17~27

 私たち人間にとって誰もが経験しなければならないことが一つあります。それは、死の問題です。いのちのある者は、必ず、いつか死ぬことが定められています。
それは、誰もが知っていることです。そして、死を恐れる思いもすべての人に与えられています。なぜ、私たちは死を恐れるのでしょうか。それは、死が神様の人間に対する刑罰だからです。創世記2:17参照。このように、死は神様からのさばきであり、のろいを意味しています。神様の命令に背いた人間が死ぬ者となったのは罪を犯した結果なのです。ですから、私たちは死を恐れるのです。
 マルタが兄弟ラザロの死に直面し、その死に対する悲しみと恐れをどのように乗り越え、希望をもつ者に変えられたのかをみてまいります。マルタは、イエス様のお力をよく知っていました。イエス様が歩けなかった人を癒され、目の見えなかった人の目を癒され、ロのきけなかった人を癒やすことのできるお方であることを知っていたからです。しかし、そのマルタであっても、死に直面すると悲しみに囚われ、絶望するしか仕方がなかったのです。このマルタの姿は、私たちの姿にも重なるものです。私たちも、愛する者の死に直面すると何とも表現しがたい悲しみと絶望と無気力感に襲われることがあります。しかし、マルタは、悲しみの中にあってもイエス様のお力を信じていました。22参照。
 マルタの悲痛な 訴えに対し、イエス様は「あなたの兄弟はよみがえります。」とお答えになりました。マルタはイエスに言った。「私は、終わりの日のよみがえりの時に、彼がよみがえることを知っております。」マルタの答えは、当時の一般的な復活信仰でした。マルタをはじめ、その当時の人々は、人間が死んだ後、終わりの日に復活することを信じていました。愛する者の死に直面し、悲しみのうちにある者にとって終末の日の復活は、気休め程度の役割しか現実的には果たしていなかったのです。
  私たちはどうでしょうか。死の前に、私たちは自分の無力さをいやというほど自覚させられます。マルタは、その絶望と無力さの只中でイエス様をお迎えすることになります。マルタはイエス様の口から重大ないのちの宣言を聞いたのです。イエス様は、マルタに言われました。
「わたしはよみがえりです。いのちです。
 わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
 また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
 あなたは、このことを信じますか。」
マルタはイエスに言った。
「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」
エス様は、あなたにも語りかけておられるのです。