小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

脱出の道も備えてくださる神

「わたしの願うようにではなく、
 あなたのみこころのように、なさってください。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ26:39

 

<脱出の道も備えてくださる神>       使徒21:27~40

 清めの期間が終わり、供え物を捧げる日時も決まり長老たちが恐れていたことが起らないで済みそうだと安心しかけた矢先に、思わぬところから事件が勃発したのです。その事件を起こそうと企んだ人々は、アジヤから来たユダヤ人たちです。このユダヤ人たちは、パウロがアジヤで宣教していた時にその宣教を妨害し続けてきたユダヤ教徒であると思われます。なぜなら、彼らはパウロと一緒にいたトロピモ(異邦人)のことを知っていた人々だったからです。トロピモは、パウロと共にアジヤから同行してきたエペソ人です。使徒2O:4参照。
 アジヤから来たユダヤ人たちは、パウロたちの宣教によりユダヤ教からキリスト教に改宗する者が現れ、ユダヤ教の群れが分裂させられ、自分たちの群れが壊滅状態となったことを恨んでいました。パウロが宣教する先々で追って来ては妨害したのはその為です。彼らは、祭りのためにエルサレムに上って来ていましたが、そこでパウロとアジヤで見かけたことのあるトロピモが一緒に歩いているのを数日前に目撃し、パウロを捕らえ殺す計画を立てたのです。29参照。彼らの計画は実に綿密なものであったことは彼らの行動に現れています。27~30参照。まず、パウロに手をかけ押さえつける者、パウロの犯した罪状を叫ぶ者、同時に群衆を煽り立てる者、さらに、ユダヤ人たちの感情を掻き立て暴動が起こるように仕向ける者、パウロを宮の外に連れ出し、すばやく宮の門を閉じる者がいました。彼らは、騒動に紛れてパウロを殺す手はずになっていたのでしょう。しかし、彼らの企ては思い通りにはなりません。ローマ軍の兵士がエルサレムの町を24時間体制で厳重に警戒していたからです。ですから、町の異変に敏速に対応することができ、パウロの命は危機一髪の所で奇跡的に守られたのです。31~ 3 2 参照。
 神様は、使命を与えられた者を守ってくださるお方です。それはパウロだけに限定されたことではありません。私たちも、多くの試練の中を守られ、今、ここに居ることを覚えたいと思います。日本における宣教も、闘いを避けられません。本気で私たちが宣教するならぱ必ず、その働きを妨害する者が現れます。しかし、どのような状況になったとしても、すべてをご支配されておられる神様が試練とともに脱出の道を備えてくださるのです。Ⅰコリント10 :13参照。ですから、安心して主の命令に従う道を選択し、神様がすべてのことを働かせて益としてくださることを体験させていただぎましょう。ローマ8:28参照。

救霊の情熱

「これは、わたしの契約の血です。
 罪を赦すために多くの人のために
 流されるものです。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ26:28

 

<救霊の情熱>       使徒21:15~26

 パウロは、エルサレムに到着するとヤコブのもとに足を運びその場にいた長老たちに宣教報告をします。長老たちは、パウロの報告を聞き、神をほめたたえます。しかし、長老たちには心配事があったのです。パウロが来たことにより騒動が起るのではないかという危惧です。21節参照。ユダヤ人にとって律法(割礼)を守ることは重要な事であり、彼らの心の拠り所になっていました。パウロの割礼を軽視する発言(ガラテヤ5:1~6)を見逃すことができない人々がいたのです。27~28参照。長老たちは、パウロに対する疑惑が根も葉もないことを証明するための方法を提案します。23~24参照。パウロには、長老たちの提案を拒否する権利と自由がありました。しかし、パウロは素直に従うのです。自分に与えられている自由を同胞(ユダヤ人)の救いのために喜んで制限することを選択します。パウロにとってユダヤ教の儀式を守ることは救いの条件ではなくなっていました。それはエルサレム会議でも確認された事です。使徒15:23~29参照。しかし、一部のユダヤ人たちにはパウロの発言が赦し難いものであり、なんとかして排除しようと企みます。ちょうどイエス様が祭司長、律法学者、パリサイ派に属する人々から憎まれたのと同じです。闇は、光の存在を嫌う傾向があるからです。パウロは、同胞の救いの妨げとなる疑惑を晴らすために長老たちの提案を受け入れます。26参照。パウロの行動は、同胞の救いを心から熱望する愛から出たものでした。ローマ9:1~3参照。ユダヤ人にはユダヤ人のように。Ⅰコリント9:19~20参照。
 パウロは、イエス様に出会い、イエス様を救い主として信じることにより、イエス様と一つにされ、律法ののろいから解放されていました。なぜなら、律法はイエス様によって完全に成し遂げられ、もはや人間を束縛する力を失っていたからです。ガラテヤ3:8~13参照。律法ののろいから解放されたパウロは、愛が律法を全うすることを自分の生き方を通して兄弟姉妹に教えようと努めます。
 私たちも救われていない家族や友人や知人の救いのために本気で祈り、自分に与えられた権利や自由を喜んで制限し、喜んで仕える者になり、イエス様の愛を伝える者になりたいと願います。イエス様の弟子たちに対する愛は実を結び、パウロや弟子たちをいのちがけで宣教する者に変え、喜んで神と人に仕える者に変えました。どんな頑な心も愛(救霊の情熱)によって打ち砕かれることを信じましょう。ピリピ2:1~11参照。

使命に生きる

「わたしに来る者は、決して飢えることがなく、

 わたしを信じる者は、どんなときにも、

 決して渇くことがありません。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ6:35

 

<使命に生きる>       使徒21:1~14

 私たちは、日々の生活の中で自分に与えられた使命を果たすことに困難を覚えることがあります。パウロエルサレムに行くことがみこころであると知っていましたが兄弟姉妹から度々引き留められると使命に対する決心が揺らいだのです。
 試練は、私たちから求めるべきものではありません。イエス様も、弟子たちに「試みに会わせないでください」と天の父なる神様に祈るように教えています。しかし、必要であれば神様の方で私たちに試練を与えられるのです。パウロにとって、エルサレムに行くことは神様のご計画であり、彼がこの後、ローマに行くためにもどうしても通らなければならない通過点であったことが分かります。ちょうど十字架を前にイエス様がゲッセマネで祈られたようにパウロも試練を前に神様のみこころを求め、備える時間が必要だったように。
 神様に敵対するサタンは、主の使命を果たそうとする者を誘惑します。パウロの場合、パウロを愛する兄弟姉妹を通して宣教の働きを妨害しようと働きます。最初の誘惑は、ツロの町で船の積み荷を降ろしている間にパウロを襲います。ツロの兄弟姉妹は、パウロエルサレムに登らないようにと忠告したのです。パウロは、ツロの兄弟姉妹の忠告を退け、エルサレムに向かって旅立ちます。パウロたちがカイザリヤのピリポの家に滞在している間に預言者アガボユダヤから下って来ました。このアガボは、以前、飢饉が起こることを預言した人物です。そして、ここでもパウロのこれから受ける苦難について預言しています。11節参照。アガボの預言を聞いた兄弟姉妹は、みなでパウロエルサレム行きをやめるように頼みます。これが二度目の誘惑です。しかし、パウロは自分に与えられた使命を忘れることなく、兄弟姉妹の説得を振り切り、使命に生きることを表明します。13節参照。
 パウロの姿とゲッセマネで祈られたイエス様の姿が重なります。十字架を前にしてイエス様は、3度天の父なる神様に祈られました。マタイ26:36~46参照。私たちは主のために苦しむ道を避け、自我の声に従い生きよと囁くサタンの誘惑の声に心を揺さぶられることがあります。パウロは苦難の後に与えられる義の栄冠(Ⅱテモテ4:8)をいただくために、自分の果たすべき使命を喜んで担わせていただこうとすべてを天の父なる神様におゆだねし、エルサレムに向かい出発したのです。同じように私たちも、パウロが歩んだようにその歩みに倣い、苦難の道を喜んで選択できるように祈り求めてまいりましょう。