小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

確かな救い

「マリヤは男の子を産みます。
 その名をイエスとつけなさい。この方こそ、
 ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ1:21

 

<確かな救い>       ヘブル10:1~10

 私たちは、救われた後も罪人に変わりはありません。イエス様を信じて心にお迎えしたら 、罪を犯さなくなるわけではないからです。サタンは、罪を犯す私たちにあなたは本当に救われたのかとささやきかけるのです。聖書には、神様の約束のお言葉が満ちています 。10:1~3参照。
 旧約時代の人々は、モーセの律法に従って毎年、大祭司が人々の罪を贖うために動物を犠牲として捧げていました。しかし、動物の犠牲では人々の心のうちから罪責感を拭い去ることはできなかったのです。天の父なる神様は、罪に対して完全な血による贖いを求められるお方です。どんなに多くの動物の血が捧げられても、どんなに人々が自分のもっているものの最高のものを捧げても、それによって満足されるお方ではありません。10:4~9参照。天の父なる神様の罪を犯した人間に対する要求はその人のいのちです。私たちは、この現実を忘れてはいけません。そして、自分が滅びに向かって歩んでいた者であることが分かる時、私たちは自分の救いの価値を正しく理解できるようになります。
 私たちは、イエス様を今、「神の御子である」と信じています。しかし、 それは当たり前のことではありません。罪人として生まれ、罪を犯し続けてきた者がまことの神様を信じる者となり、その神様が用意された救いを受け入れるということは奇蹟以外の何ものでもありません。目に見えるものしか信じない。この世でいかに栄えるか、権力を求め、地位や人々からの称賛を得るために必死に生きてきた者がそれらのものに関心を示さなくなる。それは人間業ではありません。まさに神業です。神様だけが罪人である人間を救うことができます。私たちに聖霊を与え、信仰を与え、罪の自覚を与え、信仰告白に至るまで導いてくださったお方の存在がなければ「誰ひとり救われる人はいない」のです。神様のもとを離れ、自分勝手な道を滅びに向かって歩んでいた者たちがイエス様の十字架の死の犠牲を通して、本来の神様との関係を回復する道が開かれたのです。
 誰でも イエス様を主であると告白し、自分の罪を悔い改めるならば罪を赦され、天の父なる神様との親子関係に入ることができます。ヨハネ1:12参照。神の御子の血は、完全であり、全人類の犯す罪をすべて贖うことが十分にできます。天の父なる神様は、疑い深い私たちにイエス様の十字架の罪の贖いの死が十分であることの「保証」としてイエス様を死者の中からよみがえらされたのです。ローマ4:25参照。
 救いの確かさは、聖書にあります。聖書の約束の言葉に信頼し、イエス様の血の完全さによって「聖なるものとされている」ことの幸いを喜びつつサタンの誘惑を退けてまいりましょう。

沈黙の服従

「神にとって不可解なことは、
 一つもありません。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ルカ1章37節

 

<沈黙の服従>         マタイ2:13~23

  はじめての子育ては、誰にとっても未知の世界であり、神様の助けなくしては成しえない偉業です。さらに信仰継承の課題は、親に大きな責任があり、信仰継承の難しさを時代や環境のせいにすることはできません。なぜなら、子どもの一番の先生は、なんと言っても親であり、子どもに一番影響を与えるのも親だからです。親がどのように生きているか。 子どもが一番よく知っていることを忘れてはならないのです。自分が何を話し、何を大切にし、何を目的に生きているか。子どもたちは、じっと見て観察し、分析し、自分の生き方に取り込みます。
今朝は、イエス様の父親に選ばれたヨセフの生き方に目を向けてみましょう。神様は、ヨセフに対し、夢で彼がどのように行動すべきかを命じます。13節参照。ヨセフは生まれてまもないイエス様と妻のマリヤを連れてエジプトの国に出発します。神様は、すべてを知っておられ幼子のいのちが危険にさらされる度に、ヨセフを通してイエス様を守るという行動を選択されました。神様は、全能なお方です。御子のいのちを狙うヘロデの心を変えることも、ヘロデの命を奪うこともできました。しかし、神様は、わざわざヨセフたち夫婦を用いて幼子を守られようとしたのです。ここに、神様のご計画があることが分かります。

神様は、これらの出来事を通して、ヨセフとマリヤの信仰を成長させようとなさったのです。これから先、どのような「試練」が彼らを待ち受けているか彼らには分かりません。しかし、すべてを知っておられる神様に従うならば必ず、道が開かれることをこの逃亡生活を通してヨセフたちは体験します。その時の体験は、おそらくイエス様にも繰り返し語られたはずです。イエス様は、両親から実際に天の父なる神様が生きて働いておられる事実を聞くことにより、それがイエス様の天の父なる神様への絶対の信頼と服従の基礎をつくることに繋がっていったのです。ヨセフは、夢で天の使いからエジプトへ逃げるように指示されるとその夜のうちに幼子と母マリヤを連れてエジプトに旅立ちます。

私は、このヨセフの行動に彼の信仰姿勢を垣間見ることができたのです。ヨセフは、何一つ文句を言わず、神様の命令に黙々と従います。神の御子であられるイエス様も天の父なる神様のご計画に沿って十字架の苦難の道を沈黙のうちに従われたことを心に覚え、主の歩まれた道を私たちも選択する者になりたいと願います。イザヤ53:7参照。
信仰故に受ける苦難の先に必ず栄光が用意されています。ローマ8:16~17参 照。サタンとの闘いに勝利し、十字架の死を打ち破りよみがえられ、天に凱旋された主を仰ぎつつ共に励まし合いながら地上の生涯を歩んでまいりましょう。

原罪

「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる
 ひとりの男の子が、私たちに与えられる。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain イザヤ9章6節

 

<原罪>         ローマ5:12

 神学者のJ・I・パッカー博士は、原罪を次のように説明しています。「罪深さは生まれた時からすべての人に及んでいて、実際に罪を犯す前から動機が歪んでいる心というかたちで存在する。このような内側の罪深さが、私たちが犯すすべての罪の起源である。原罪は神の前で私たちの最初の代表であるアダムから、不可解ではあるが現実的に私たちに引き継がれている。」
なんでアダムが犯した罪の責任をその子孫が受け継がなければならないのかと不満に思う方もおられるでしょう。確かに、アダムが罪を犯したならアダムだけが罰せられるべきではないかと文句を言いたいところです。しかし、文句を言っても過ぎてしまったことは変えられません。大切な点は、私たちがアダムのもった罪の性質を受け継いでいるために「死ぬ」ものとされているという事実です。死んだらみんな同じところに行くのだと考える人がいますが、聖書は人間は死後、天国に行く者と地獄に行く者とどちらかしかないと教えています。誰でも天国に行きたいと願うでしょう。しかし、神様はすべての人が天国に入れるわけではなく、地獄に行くものもいると聖書を通して教えておられます。ですから、罪の悔い改めが必要になります。聖書は、人間が罪人であるために罪を犯すのだと教えています。これが理解できる時、自分に救いが必要であることが分かります。なぜなら、私たちは、日々罪を犯し続けているからです。ですから、自分が滅びに向かっている者であることを自覚できることは有難いことなのです。
また、自分とアダムの連帯性が分からないと罪人としての本当の意味での自覚が生じません。アダムに起きた出来事を他人事として考えている間は、救いの素晴らしさと必要性が分かりません。アダムが罪を犯したことにより、そのアダムの罪の性質を自分も受け継いでいる者であることが自覚できるとき、救いを求める思いが生じてきます。そして、アダムとの連帯性が分かるようになるとイエス様との連帯性も分かるようになります。なぜなら、罪がひとりの人を通して全人類に及んだように、救いがイエス様を通して全人類に及ぶことになることが受け入れられるからです。18節参照。
エス様が自分の罪のために身代わりとなって罪の罰を受けてくださったことを信じる時、その信仰によりイエス様と一つとされ、イエス様の十字架の贖いの故に罪を赦していただくことが可能となります。そして、私たちがイエス様と繋がっている時、私たちはアダムから受け継いだ罪の性質から解放され、罪を犯さない自由を得ることができるのです。ですから、絶えず、イエス様に繋がり続けることができるように罪を悔い改め続けてまいりましょう。