小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神の摂理に従って

「あなたの道を主にゆだねよ。
 主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇37章5節

 

神の摂理に従って>         使途18:18~23

 ウエストミンスター小教理問答の間11に神の摂理に関する説明があります。「神の摂理の御業とは、神が、最もきよく、賢く、すべての被造物とそのあらゆる動きを保ち、治めておられることです。」もう少し分かりやすく言うと、創造とは、世界を存在させるために神がご自身の力をもってなされた業であり、それに対し摂理とは、創造と同じカを継続して行う神の業を意味しています。つまり、神様は、ご自身のみこころに従って、すべての被造物を造られ、その造られたものを保ち、すべての出来事に関わられ、すべての事をそれぞれの定められた目的へと導かれるのです。パウロは、その神様の摂理に従って歩んでいました。彼は、コリントからエペソに向け出発します。18:18~9参照。
 エペソは、パウロたちが第二回伝道旅行の際に一番はじめに行こうとしていた宣教地です。しか し、パウロたちの当初の計画は聖霊により変更されたのです。16:6参照。パウロたちは、エペソではなくマケドニヤに行くように導かれ、その導きに従って彼らは、ピリピの町で宣教し、その後、テサロニケ、ベレヤ、アテネ、を経てコリントの町に導かれそこで宣教してきました。そして、ついにパウロは念願であったエペソの町に辿り着くことができたのです。しかし、パウロは、エペソをすぐ離れ、エルサレムに向かいます。彼は人間の計画よりも神様のご計画を優先することをいつも選択します。パウロは、自分の立てた計画をいつでも変更できる余地を残していました。<br>
 私たちは、どうでしょうか。何か計画を立てるとき、その計画の中に神様の介入される余地を残しているでしょうか。それとも、自分の 計画を変更することなく、強引に押し進めようとしているでしょうか。私たちの生き方が神様に対する心の態度を表すことになるのです。
 パウロは、いつでも自分の立てた計画を変更できる余地を残していたことから謙遜な者に変えられていたことが分かります。パウロは、復活されたイエス様と出会い、自分のうちにあった高慢さを示されました。イエス様に出会う前のパウロは、自信に満ち、律法を完全に守り、自力で神様から義と認められていると自負するところのある人でした。その高慢さをパウロは、度重なる試練を通して打ち砕かれ、謙遜な者に変えられていったのです。私たちも、みことばの光により自分のうちにある高慢な態度を示されたならぱ素直にその態度を悔い改め、神様だけに頼りつつ、いつでも計画を変更できる余地を残す謙遜さを身につける者に変えられていきたいと願います。それが神の摂理に従って生きる者に求められる態度であり、キリスト者の目指すところとなるのです。<br>

天国で一番偉い人

「主の山の上には備えがある。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世記22章14節

 

<天国で一番偉い人>           マタイ18:1~4

 誰が一番偉いかという弟子の質問のなかに、人間がいかに高慢なものであるかが現されています。弟子たちの関心は、この世であろうと天であろうとどこであっても結局のところ自分の地位にありました。「天の御国では、だれが一番偉いのでしょうか」イエス様が神の国を建設された暁には、その国を自分も治めたいという野望を弟子たちの誰もがいだいていたのです。イエス様は、自分の地位のことばかり心配し、互いに自己主張し合い、ねたみ争っていた弟子たちに向かって、彼らの考え方の誤りを示すために実物教育をなさったのです。マタイ18:2~3参照。
 イエス様のお言葉は、当然天の御国に入れると思っていた弟子たちにとって、驚くべき宣言となりました。弟子たちは悔い改めをイエス様から求められたのです。悔い改めとは方向転換を意味します。弟子たちは、誰が一番偉いかと互いに論じ合っていましたが、天の御国においては自分を低くする者が偉いと評価されるのです。「偉さ」ではなく「低さ」に目を向けるようにとイエス様は弟子たちを教えられたのです。そして、低さの手本として近くにいた子どもを呼び寄せ、弟子だちの前に置かれました。3節参照。
 子どもたちのようにとは、大人の世界 から見た場合の子どもたちの存在の低さと小ささを現しています。子どもは、こ の世において何の地位もありません。自分を誇り、偉ぶることもしません。また、謙遜さをもっていて喜んで人に譲ります。私たちは、どうでしょうか。表面的には、人に譲るような態度を示すことがあります。しかし、心の中では自分のしたいことをいつ必ず実現しようという野望をもっています。また、私たちは人から指摘されたり、強制されることを好みません。また、自分は何もできない、何も持っていないとロでは言いながら、自分のしてきたことを誇ったりするところがあります。しかし、良く考えてみるならば、私たちが自分で得たものなど何もないはずなのです。
 救いに関しても同じことです。私たちの救いは神様の恵みです。神様の一方的なあわれみで救われ、御国の民とされた罪人です。だれ一人自分の努力で救いを勝ち取った人はいません。行ないによる義ではなく、信仰による義の教理を正しく自覚していれば、その事実を素直に認めることができるなら、 御国で誰が一番偉いかという愚かな質問は生じてこないはずなのです。
 神様は、私たちが心から高慢であったことを認め悔い改めるならば、その罪を赦し、神様との交わりを回復させてくださいます。小さい子どもは、私たちの霊の状態を教えてくれる先生のような存在です。子どものように神様を信頼し、祈り、みことばを素直に受け入れ、主に従う者になれるように祈り求めてまいりましょう。

真の同情者イエス・キリスト

「(アブラハムは)神には約束されたことを
 成就する力があることを堅く信じました。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ローマ4章21節

 

<真の同情者イエス・キリスト>             へブル4:15~16 

 私たちは、生きて行くとき、さまざまな苦しみや悲しみを経験します。その中でも、愛する人との別れは大きな試みです。いのちある者は、必ず死を迎えることが定められています。例外はありません。聖書は、その悲しみをどのように乗り越えることができるかを教えています。15節参照。
この大祭司とは、イエス様のことです。イエス様が私たちと同じように、試みにあわれたお方であることが重要です。なぜなら、試みの中で苦しむ人にとっての一番の慰めは、同じような苦しみを経験したことのある人の言葉や態度によることが大きいからです。ところが、人間が経験できる試みの数には限りがあり、その種類もさまざまです。同じような経験をした人が必ず身近にいるとは限りません。しかし、落胆する必要はありません。なぜなら、聖書は驚くべき良き知らせを私たちに提供しているからです。その良き知らせとは、神の御子であられるイエス様が罪を犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みにあわれたお方であることです。自分だけが特別な試みを経験しているわけではなく、すでに同じ試みを受けられたお方がいてくださることは大きな励ましであり慰めです。イエス様も愛する家族や友人との別れを経験されています。

また、試みは、誘惑とも訳される言葉です。サタンが人間に働きかけることが誘惑です。イエス様もサタンの誘惑にあい、壮絶な戦いを経験されました。なぜなら、 イエス様には不可能なことが何もないからです。すべてのことが誘惑となります。例えば 、何も食べるものが身近にないときに道端に落ちている石をパンにしたらどうですかというサタンの誘惑もイエス様には有効なのです。イエス様は、サタンのあらゆる誘惑の言葉に聖書の言葉で対応され、勝利され続けます。ですから、私たちもイエス様に倣い聖書のみことばをもってサタンの誘惑に勝利することができるのです。
私たちの先に私たちが今経験しているすべての試みにすでに打ち勝たれたお方が共にいてくださることを覚えましょう。そして、何よりイエス様が罪の力と死ののろいから私たちを解放してくださったことを感謝し、死の先にある御国で永遠に神様と共に過ごす日が来ることを待ち望む者になって行きたいと願います。
そして、私たちには、天の御国ですでに地上で別れた家族や友人と再会できる希望があるのですから、いつまでも悲しみの中に留まることなく今、自分が生かされている意味を考えながら自分のなすべきことに全力で取り組む者になろうではありませんか。