小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

福音の目的に生きる

「わたしが道であり、真理であり、
 いのちなのです。」
                  
                 f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ 14章6節

 

<福音の目的に生きる>           Ⅱコリントcorinthians 5:1~10

地上に生きている限り、私たちには苦難を全く経験しないという事はありえません。イエス様は、ご自身に従う者が迫害されることを予告されています。ヨハネ15:17~27参。
この予告どおり弟子たちは、イエス様を主であると告白することで迫害にあい、殉教していきます。パウロも、イエス様を信じた後、迫害される者になりました。
Ⅱコリ11:23~33参。このようにパウロは、信仰の故に誰よりも多くの苦難を経験したと告白しています。さらにパウロは、信仰を与えられた者が受ける迫害という苦難以外に肉体の弱さも持っていた人だったのです。Ⅱコリ12:7~10参。パウロは、自分に与えられた肉体の病を取り除いて欲しいと神様に願いましたが、その願いはかなえられず、弱さを受け入れるように求められます。パウロは祈る中で自分が目を向けるべきことが示されていったのです。Ⅱコリ5:1~8参。
パウロは、今日の箇所で弱さをもつ肉体を 「地上の幕屋」に譬えてキリスト者の希望について教えていきます。イスラエルの民は、荒野で4 0年間幕屋の生活をしていました。幕屋は、家と比べると弱いものです。強い風で壊れてしまうこともあります。幕屋と比べ、家は頑丈です。パウロは、神様がくださる永遠の家が将来私たちに与えられることを教えています。
「永遠の家」とは、御霊のからだ=栄光のからだのことです。Iコリ15:43~49参。私たちには、やがてイエス様と同じ栄光のからだが与えられることが約束されています。神様は、この約束の保証として、御霊を私たちに与えてくださっているのです。Ⅱコリ5 : 5参。

私たちは、神様の約束が確かであり、将来、朽ちることのない栄光のからだが与えられることを御霊の働きにより確信できます。ですから、現在の肉体の弱さを肯定的に受け入れることができるのです。しかし、御霊を神様からいただいている私たちですが、イエス様を直接自分の目で見ることはできません。私たちは、信仰により間接的にイエス様を見るという状態に置かれています。その状態をパウロは、6節で 「私たちが肉体にいる間は、主から離れている」と説明しています。私たちがイエス様を自分の目で直接見る時は、イエス様が再臨される時です。Ⅰコリ13:12参。そして、イエス様が再び、地上に来られる時、私たちの肉のからだは,栄光のからだに変えられるのです。
Iコリ15 : 52参。
主の日を待ち望みつつ、私たちは神様の喜ばれることを実行する者に成長することが期待されています。私たちが救われたのは、何よりも救ってくださったイエス様を愛する者となり、神様が愛にされている人々を私たちも愛する者になることです。そして、私たちを通して神様の愛を知った人々が神様の御名を褒め称える者になることです。それが 「福音の目的」です。私たちの生き方が神様に喜ばれるものとなり、神様に栄光が帰される事につながるように再臨に備え祈りつつ、みことばの実践に励んでまいりましょう。

古い規制と新しい規制

「神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。
 私は決して、ゆるがされない。」
                      f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇 62:2

 

<古い規制と新しい規制>           使徒10:9~23

自分のうちにある偏見によって人を差別していることはないでしょうか。ペテロは長い間、神様が定めた古い規制に従ってきたために、その規制を破ることに対し罪意識をもっていました。神様がイスラエルの民にお与えになった規制の一つに食べ物のことがありました。レビ記11章参照。

イスラエルの民に対する食べ物の規制には、神の民と異邦人との区別を明らかにするという目的とイスラエルの民の健康に対する配慮が含まれていました。神様は、ペテロに食べ物に関する規制が変更されたことを通して、福音がユダヤ人だけでなく異邦人にも開かれたことを教えようとされたのです。10:12~20参照。

ペテロは、異邦人にも福音の戸が開かれたことを幻と聖霊の声を通して知らされることになったのです。私たちも、ペテロと同じように偏見や差別意識に囚われていることはないでしょうか。この人には、福音を伝えたいがこの人には伝えたくない。そのように考えていることはないでしょうか。私たちは、自分が受けた恵みを忘れてはなりません。私たちは、良い人間だったから救われたわけではありません。真面目だったからその生き方の故に救われたわけでもありません。みな同じように目に見えない神様の存在を無視して自己中心に生きてきたものです。ローマ1:20~23参照。

エス様は、誰に対しても平等に差別されることなく、福音をお伝えになられました。社会から疎外されている人々の所にも足を運ばれ、彼らの友となり、彼らに神様の愛をお伝えになったのです。イエス様の周りには、取税人や遊女や悪霊から解放された人々もいました。社会から汚れた者であるとレッテルを張られている人々に対しても、イエス様は救いの手を差し伸べ、彼らに救われるチャンスを提供していきます。私たちは、どうでしょうか。福音を語る相手を選んでいることはないでしょうか。執り成し祈る対象を制限していることはないでしょうか。私たちの愛は、自己中心なものです。

エス様は、愛のない私たちを裁くことなく、受け入れ愛しておられます。その事が本当の意味で分かる時、イエス様の愛に応答し、イエス様が喜ばれることを実行する者になりたいという願いが起きてきます。イエス様はすべての造られた者のためにご自身のいのちを捧げられたのです。イエス様が十字架で流された血は、すべての人を完全にきよめます。イエス様がいのちがけで愛されたすべての造られた者に福音を届けること、それが先に救われた私たちに与えられた使命です。

私たちは、「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」マタイ5:44参照。との新しい規制に従って、偏見や差別意識を捨て、誰に対しても愛をもって福音を伝える者になることが期待されています。イエス様からいただいた勇気と愛をもって、大胆に福音を人々のもとに運び、与えられた使命を果たす者になれるように互いのために執り成し合い励まし合い福音宣教に努めてまいりましょう。

 

神に喜ばれる生き方

「すべての汚れやあふれる悪を捨て去り、
  心に植えつけられたみことばを、
  すなおに受け入れなさい。」
                    f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヤコブ 1章21節

 

<神に喜ばれる生き方>            使徒10:1~8

今日の箇所に登場するコルネリオは、神に喜ばれる生き方を実践していた人です。10:2参照。本当に敬虔な人は、神様を畏れる人です。神様を畏れるとは、不正をしないという事です。すべての事を見ておられる神様を畏れている人は、不正ができません。なぜなら、必ず自分がしたことの報いを受けることになることを知っているからです。コルネリオも、まことの神様を畏れ、神様の御前に罪を悔い改めて生きてきた人だったのでしょう。そうでなければ、彼の祈りが神様に覚えられるはずはありません。そして、コルネリオは、神様から罪を赦された者にみられる特徴が現れた人でもありました。その特徴とは、あわれむ心が与えられるというものです。

私たちは、神様のあわれみを受けています。神様が私たちをあわれんでくださらなければすでに滅ぼし尽くされているはずです。ノアの時代の人々が洪水によって滅ぼされたように、神様の命令に背いたイスラエルの民が荒野で滅ぼされたように、ソドムの人々が滅ぼされたように。ですから、コルネリオは神様から憐れまれていることを自覚し、同じように人をあわれむ者に変えられていたのです。そして、助けを必要としている人々に施しを実行していました。しかも、彼はユダヤ人に対しその施しを実践していたのです。支配する側にいたコルネリオが支配している相手であるユダヤ人を助けることは容易なことではありません。なぜなら、彼の仕えていた皇帝の目があるからです。しかし、コルネリオは、ユダヤ人が信じているところの同じ神様を信じる者となり、同じ主にある兄弟姉妹に必要なものを与えたいという思いが生じてきた為に為政者を恐れずに善行を実践したのです。そして、最後にコルネリオがいつも祈っていた点について考えてまいりましょう。
祈りは、神様が喜ばれる最大のものです。神様は、人間と親しい交わりをもちたいと望まれ、人間を創造されたお方です。しかし、人間は自分の意志で神様の命令に背くことを選択し、その結果、人間は罪人となり、神様との交わりを失うことになりました。神様と人間の交わりを邪魔するものが罪なのです。神様は、その罪の問題を解決するためにイエス様が十字架に架かることを良しとされたと言ってもよいでしょう。イエス様が私たちの罪のために身代わりとなって十字架にかかり罪の罰を受けてくださることにより罪の問題が処理され、神様と人間の霊的な交わりが回復される道が備えられたのです。
コルネリオは、自分の犯した罪を悔い改め、天の父なる神様の喜ばれることを実践し、祈る人に変えられていました。コルネリオは、神様が自分にしてくださったことを感謝して、神様を畏れつつ、神様が命じられることを喜んで実行していたのです。マタイ22:37~38参照。
私たちも、神様の喜ばれる生き方を実践できるように祈りつつ、みことばに従って生きる努力を続けてまいりましょう。神様は、本気でご自身に従う者を喜び祝福してくださいます。