小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

生かされている目的

「私が仕えている万軍の主は
 生きておられます。」 
                     f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰ列王記 18章15節 

 

<生かされている目的>             使徒9:36~43

タビタは、生前多くの人に仕えていた人でした。 39節参照。タビタの死を悲しむ寡婦たちがぺテロのところに来て彼女が自分たちにしてくれた良いわざについて伝えます。イエス様に出会い、救いに与った人は、自分のために生きる者から主のために生きる者に変えられます。パウロもそうでしたがタビタもそうだったのです。自分に与えられた賜物を活かし、タビタは縫い物をして寡婦の下着や上着を作りプレゼントしていたのです。
神様は、私たちが互いに愛し合い、仕え合う者となることを望んでおられます。タビタは、自分にできることはないかと考え、得意の手芸を活かし、貧しい寡婦たちのために下着や上着を作ったのです。人々は、タビタの姿にイエス様の姿を重ね見たはずです。なぜなら、イエス様は、寝る間を惜しんで宣教し、自分の食事もゆっくりと取る暇もなく、病人や悪霊に憑かれた人々の対応に追われていたからです。イエス様には、いろいろな奇跡を行なう力がありました。その力をイエス様は、自分のために一度も使わずに地上の生涯を全うされたのです。
エス様は、ただ天の父なる神様の御名が崇められるようになる為に、天の父なる神様が命じられたことだけをなさったと告白しています。私たちも、イエス様に似た者となっていきたいと思うのです。私たちは、救われる以前、自分のためだけに生きてきたはずです。自分の欲望を達成する為に私たちは、懸命に時間や労力を使ってきたのではないでしょうか。そして、その生き方に空しさを感じていたのではないでしょうか。どんなに地位や名誉や財を手に入れてもそれによって人間の心は豊かになることはありません。豊かになるどころか逆に手に入れたものを守る為に必死になり、人に対してあわれみの心を失ってしまうという悲惨な状況となっていきます。私たちは、今自分が死んだら、心からその死を悲しんでくれる人がいると言えるような生き方をしてきたと自信をもって言えるでしょか。私たちは、自分のしてきたことを振り返り、これから何をなすべきか考えたいと思うのです。自己実現も決して悪いものではありません。自分の能力を活かし、社会に対し貢献できることをしたい。それは素晴らしい生き方です。しかし、それらの目的が人からの評価を期待してなされたことであるか。それとも神様に対して神様から受けた恵みに対する感謝の思いから成されたことであるか。その違いは大きいのです。
神様は、私たちが何をしたか、その事自体に関心があるのではなく、その動機に目を留められるお方です。自分に栄光を帰する為にしたのか。それとも神様に栄光が帰されることを望んでしたことなのか。その点をいつも忘れないようにしなければなりません。私たちが生かされている目的は、私たちの生き方を通して造り主であられる神様に栄光が帰されることです。イエス様の愛に応答し、自分を愛するように人を愛する者になれるように祈りつつ、みことばに従って生活していきましょう。

 

立ち上がりなさい

「主を恐れることは知恵の初め、
 聖なる方を知ることは悟りである。」
                  
                                                     f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 箴言9章10節

 

<立ち上がりなさい>             使徒9:32~35

8年もの間、床についていたアイネヤという病人がいました。彼は、中風であり下半身が病に侵され、自力で立つことができない状態となっていました。アイネヤは、福音を聴いてイエス様を主ですと告白し、信仰者と変えられていましたが、自分の病の癒しを信じていなかったようです。長年病に侵され、自分の力で歩くことができない状態となっていた為、足の筋力も衰え、まさか自力で立つことができる日が来るなどと夢にも思わないほど悲観的になっていたのでしょう。
そんなアイネヤに転機がおとずれます。ペテロが各教会を巡回していることを聴いたからです。「ひょっとしたら自分の病が癒されるかも知れない」という希望が彼の心に芽生え始めます。しかし、神様は一方的に癒しを行なわれるお方ではなく癒しを本気で望んでいるかどうか。その人のうちにある信仰を試されます。ペテロは、アイネヤにチャレンジします。34節参照。
アイネヤは、ペテロの言葉に躊躇することなく、即座に従って行動したのです。自分にはできないことでも、イエス様には不可能なことはない。死者の中からよみがえられたイエス様の力により自分も立ち上がることができると信じてアイネヤは立ち上がります。神様は、私たちにも信仰を働かせて行動することを求めておられます。私たちは救われる以前、自分の経験ですべての事を判断して行動してきたばずです。そして、多くの失敗を重ね、互いに傷つけ合ってきた者です。神様は、その古い生き方をやめ、イエス様ならばどうされるかと聖書の中にキリスト者の生き方を見出して欲しいと望んでおられるのです。神様からののろいではなく、神様からの祝福をいただく道を選択する者になって欲しいと・・・

神様は、ご自分に従う者を千代まで祝福してくださると約束してくださるお方です。愛するひとり子であられるイエス様を十字架にかけてでも人類を救おうと考えられた神様がそれ以下のことをしてくださらないはずはありません。神様は、私たちに滅びから救われる道を備えてくださったお方です。罪の力からも解放し、神様に祈ることのできる特権を与え、神様からの祝福をいただくことができる者とされるのです。私たちは、その祝福をいただいているでしょうか。
神様からの祝福を受け取るために立ち上がりましょう。神様の恵みをいただく為の秘訣はへりくだりです。へりくだった心で謙遜な心で素直な心で礼拝に臨むならば、手ぶらで帰るようなことにはなりません。讃美の中にも神様の恵みが溢れています。祈りの中にも試練に対する答えがあります。愛する兄弟姉妹との会話からも神様の愛をいただくことができます。そして、みことばには私たちの霊の糧として必要なすべてのことが備えられているのです。
エス様は、あなたの心も体も魂も完全に癒すことがおできになるお方です。イエス様に信頼し、イエス様の御名により立ち上がり、自分の意志でイエス様に従って生きる決断をしようではありませんか。

 

前進する教会

「私は、私を強くしてくださる方によって、
 どんなことでもできるのです。」
                                                         f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ピリピ4章13節

 

<前進する教会>             使徒9:26~31

パウロは、ユダヤ教からキリスト教に改宗すると以前、迫害していたユダヤ人のところに行き和解を試みます。パウロは、勇気をもって自分に起こったことを正直に証し、キリスト者に対し自分のしてきた態度が間違っていたことを謝罪したはずです。神様は、心から罪を悔い改めた者を見捨てることなく、パウロに良き理解者をお与えになります。27 節参照。
バルナバは、勇気をもってパウロを自分の家に招き、彼からいろいろと話を聴い たことでしょう。そして、彼の回心が本物であることを確信し、パウロを使徒たちのところへ連れて行き、彼が自分の身に起こったことを証するチャンスを提供します。これは実に驚くべき行動です。慰めの子と呼ばれる穏健な人物であったバルナバだからこそ実行できた行動であったと言えるかも知れません。しかし、私たちも救われる以前、パウロと同じように神様に対して敵対して生きてきた者たちであることを思い出すならば教会の兄弟姉妹がサウロを無条件で受け入れ、愛し仲間として扱っていることとバルナバパウロにした行為が自分が受けてきた行為と重なるのです。私たちは、先に救われた妻や夫の信仰生活を邪魔してきたかも知れません。先に救われた兄や姉や弟や妹を迫害してきたかも知れません。しかし、どんなに迫害しても彼らはそれらの行為を赦し、救われるために祈り 続け、救われた暁には救われたことを誰よりも喜んだはずです。教会にはいろいろな人が神様の導きにより集められ、共に一つの家族とされ、共に祈り合い、助け合うようにと求められるところです。エルサレムの教会の兄弟姉妹は、バルナバの執り成しを通して、パ ウロを受け入れ、仲間として迎えていきます。これも実に驚くべき行動です。信仰がなければ受け入れることのできない事柄です。イエス様の命令に彼らは従ったのです。汝の敵を愛せよとのご命令に従う決断を選択していったからです。
パウロは、自分のしてきたことを心から赦し、仲間として迎えてくれたバルナバエルサレムの兄弟姉妹に心から感謝 し、バルナバを備えてくださった神様に感謝したはずです。パウロは、受けた恵みに対し、精一杯の応答を自分が体験したことを人々に証し、イエス様こそ旧約聖書が預言したところの救い主であられることを大胆に語る者となります。ここにも救われた者の姿を見ることができます。自分に起こった素晴らしい奇蹟のわざを体験した人は、その喜びを伝えなければいられません。私たちも神様が自分にしてくださったことを人々に語り続けるためにも自分が受けた恵みの大きさを再確認し、救いの喜びを絶えず持ち続けられるように務め励む者でありたいと願います。教会に救われた喜びが満ちる時、福音宣教の業は前進していくのです。神様は、ご自分の救われた民に平安を与え、主を畏れる思いを与え、聖霊を豊かに注いでくださいます。聖霊の力をいただいて大胆に主を証する者に変えていただけるように祈り求めてまいりましょう。