小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

求め続けよ

「主であり、師であるこのわたしが、

 あなたがたの足を洗ったのであれば、

 あなたがたもまた、

 互いに足を洗い合わなければなりません。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  ヨハネ13:14

                                  

<求め続けよ>     マタイ7:7~11

 「求めなさい」「捜しなさい」「たたきなさい」という、これら三つの言葉には、文法的な共通点があります。それは、原語の「現在命令形」が使用されていることです。その時制を踏まえて訳すと、「~し続けなさい」「常に、継続的に、習慣的にそうし続けなさい」という意味になり、三つの言葉は、それぞれ「求め続けなさい」「捜し続けなさい」「たたき続けなさい」となります。つまり、私たちが熱心に、主体的、意欲的に祈り求め続けることが教えられているのです。
また、私たちが祈り求める、その祈りを聞いて下さる天の父なる神様がどのようなお方であり、神様と自分がどのような関係であるかに目を向けさせてくださるお方です。

 イエス様を信じた人々は、一方的な恵みにより、父なる神様から信仰を与えられ、神の子の身分を与えられて、父なる神様と親子の関係に移されます。ですから、親子とされた者たちは、遠慮することなく、大胆に父なる神様に祈り求めることが出来るのです。さらに、イエス様は、天の父なる神様が求める者に一番良いものである聖霊様を与えてくださることを教えてくださいます。私たちは遠慮することなく、心からのさけびをもって、天の父なる神様に聖霊様に満たしてくださいと祈り求め続けてまいりましょう。

 これまで以上に天の父なる神様との霊的な交わりが深められ、与えてくださると約束された沢山の祝福を受け取る者となるために、何よりも私たちが父なる神様が与えてくださった良いものである聖霊様を自分の心の王座にお迎えし、自分が本当に望んでいることが、神様のみこころにかなうものとされていくことを、日々の生活の中で体験し、その恵みを深く味わう者でありたいと願います。

子どもとして大胆に祈ること、キリストの弟子として、キリストの命令に心から従うこと。この二つのことは、私たちの心が聖霊様にご支配され続けている時に可能となり、私たちはどのような苦しみも悲しみも感謝と喜びに変えられ、嵐の中でも平安をもつことができる…すばらしい約束の祝福にあずかることができるのです。

 最後にイエス様の弟子たちに対することばを記します。

「あなたがたが、わたし(イエス)の名によって何かをわたしに求めるなら、わたしがそれをしてあげます。もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです。そしてわたしが父(神)にお願いすると、父はもう一人の助け主(聖霊)をお与えくださり、その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。」     ヨハネ14:14~16

罪人を招かれる主

「わたしの何が主に喜ばれることなのかを

 吟味しなさい。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  エペソ5:10

                                  

<罪人を招かれる主>     マタイ9:9~13

 マタイは自分が罪人であることを自覚していたことでしょう。彼は職業柄、同胞のユダヤ人から、遊女や異邦人と同じように罪人と呼ばれていることを知っていました。人間的に見れば、将来が保障されている職業に就き、金銭面では何の心配もいらない生活を送っていましたが、心の底に満たされない虚しさを抱えていたのでしょう。マタイは、本当の意味で愛してくれる友や、心を開いて本音を語れる相手がいなかったと思われます。そんな彼に、自分からは決して近づくことの出来ないお方であるイエス様の方から声をかけて下さったのです。

 イエス様は、本当に不思議な魅力に満ちたお方です。罪という恐るべき病に魂を侵され、富と権力の虜にされていたマタイは、イエス様と出会い、何のためらいもなく、イエス様の招きに従って立ち上がることができたのです。そして、イエス様の弟子となり、罪の力から解放されました。イエス様は、マタイの病を癒すため、彼の罪を取り除くために、彼のもとに足を運ばれた魂の医者です。イエス様は、患者である罪人が、御許に来るのをただ待つのではなく、自分から多くの犠牲を払って罪人である私たち人間のもとに来てくださり、その身代わりとなって、十字架にかかり、罪の罰を代わりに受けてくださったお方です。そして私たちの友となり、人生を共に歩んで下さいます。

 私たちの魂は、イエス様と出会い、自分の罪を素直に認め「ごめんなさい」と悔い改める時、罪が赦され、罪の力から解放されるのです。 イエス様は、マタイのためだけでなく、あなたを招くためにも来てくださった救い主です。「わたしについて来なさい」とイエス様はあなたを招いておられるのです。愛されていること、ゆるされていることを知り、確認し続ける尊い食卓をともに囲むことをゆるし、喜んでくださる…神の子としてくださる、この招きが、まさしく罪人である自分のようなものに与えられているとは、なんという素晴らしい知らせ、喜びに満ちたグッドニュースではないでしょうか。これこそが福音です。

 イエス様は、罪人である私を、あなたを招き、救うためにこの世に来て下さった神の御子です。「わたしについて来なさい」と、イエス様はあなたに語られるのです。
 今日、この招きに応答し、イエス様に従い、共に生きる決断をしようではありませんか。そこからあなたの新しい人生がはじまります。罪赦された罪人としての平安と希望、幸いに満ちた人生を共に歩んでまいりましょう。

 

識別力を働かせて

「わたしの家は、

 あらゆる民の祈りの家と呼ばれる。」

 

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:普通  マルコ11:17

                                  

<識別力を働かせて>     マタイ7:6

 イエス様は、私たちに否定的な意味でさばくことについて、「さばいてはいけません」と言われましたが、何に対しても分析や評価や判断を放棄するように言われたわけではありませんでした。6節のみことばは、そのことを譬えで語り、さばくことの肯定的な意味である、分析や評価や判断など、識別することの重要性を教えておられるのです。聖書の各所で、私たちが判別したり、識別したりすることを尊び、勧めています。分かりづらい異端やにせ預言者たちに対峙できるよう、彼らの教えを分析し、評価し、判断して、ふさわしくさばくことは、教会内に悪を蔓延させないためにしなければなりません。愛する兄弟姉妹が罪を犯しているような場合も、愛をもって忠告し、その罪から決別する生活を選択するように諭すことが求められるのです。

 また、私たちが福音を宣べ伝えていくときにも、識別力を発揮して、限られた時間と労力を、本当に大切なことのため用いさせて頂きたいと願います。イエス様も、弟子たちに次のように勧められました。「一つの町で人々があなたがたを迫害するなら、別の町へ逃げなさい。」マタイ10:23福音を頑なに受け入れようとしない人々は神様にお委ねして、福音が届けられることを待っている人々のところへ積極的に福音を伝えるために、向きを変えることも必要です。福音を伝えていく時、どのように伝えたらよいのか、迷うこともあるでしょう。そんな時、私たちの一番の模範となるお方は、やはりイエス様です。イエス様がどのように人々と関わられ、ふさわしい仕方で福音を伝え、救いに導いていかれたのか。イエス様は、どのような人に対しても天の父なる神様の愛をもって福音を届けられたお方です。

 イエス様は、罪人である私たちの身代わりに、その罪の罰を受けられるために地上に来てくださいました。そのお方の愛をいただいた者として、イエス様がいのちがけで愛しているすべての人々に、天の父なる神様からいただいた福音を届けてまいりましょう。

 私たちがなすべきことは、私たちの目から丸太を取り除き、罪を赦し、恵みの内に生かして下さっている神様に感謝することです。そして与えられている聖なるもの、真珠を大切にしつつ、神様の恵みを、愛すべき隣人へ宣べ伝えることです。私たちは、周りの人々とどのように関わり、どのようにしたら、福音を素直に聞いてもらえるか。父なる神様から愛されている子としての自覚をもって識別力を働かせ、福音を伝える相手の状態や状況を正しく受け止め、見極めて、愛をもってみことばを伝えられる人に成長させて頂きたいと願います。