小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

神の子の声を聞く

「主イエスは、私たちの背きの罪のゆえに 死に渡され、
 私が義を認められるために、 よみがえられました。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ローマ 4:25

 

<神の子の声を聞く>    ヨハネ5:19~25

  イエス様は、十字架に架かられる前に大切なことを弟子たちに教えられたのです。その一つが神の子の声を聞くことです。私たちは、毎週、共に礼拝をささげ、共に神の子の声を聞いています。神様によって立てられた牧師の口を通して、説教をとおして、私たちは神の子の声を聞いているのです。
エス様は言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」
この死人とは、誰を指しているのでしょうか。霊的に死んだ状態にある人間を意味しています。霊的には死んだ状態とは、目に見ることのできない神様との霊的な交わりがない状態です。しかし、私たちは福音を聴き、信仰が与えられ、天の父なる神様が罪人である自分をそのまま愛し、愛するひとり子であられるイエス様を罪の贖いのために犠牲として捧げてくださったことを信じる者とされています。さらに、神様は、イエス様を神の御子であると信じる者の罪を赦してくださり、神の子すなわち養子としての身分を与えてくださったのです。
ここに私たちとイエス様と違いがあります。イエス様は、養子ではなく実子である点です。私たちはその神の独り子であられる御子の声に耳を傾けることが求められています。25節参照。
 イエス様の声に聞くとは、単に聞いて終わりではなく、心から聞き従うことが求められるのです。本当にイエス様の声に聞き従うならばその人は生きると約束されています。私たちは、イエス様の声に本当に聞き従っているでしょうか。心のどこかに「自分のしたいようにやりたいように生きたい」という自我が残っていることはないでしょうか。自分のしたいことを実現させるためにイエス様を利用しようとしていることはないでしょうか。弟子たちも復活されたイエス様と出会い、聖霊をいただくまで自分の利益しか考えない者たちでした。しかし、彼らは変えられたのです。私たちも同じ聖霊によって変えられます。そして、使徒たちが守られたちように。これまでもイエスが私たちの手を握っていてくださったようにこれからもイエス様は私たちの手をしっかり握っていてくださり、天国まで確実に連れていってくださるのです。ローマ8:31~39参照。
 私たち人間には絶対不可能な死の力を打ち破り、よみがえられたイエス様に救いの確かさの根拠を置いて地上におけるすべての営みをイエス様にお委ねする決断を今、いたしましょう。

  

受けるより与える者となる

「父よ、彼らをお赦しください。
 彼らは、自分が何をしているのかが
   分かっていないのです。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ルカ 23:34

 

<受けるより与える者となる>    エペソ4:28

  個人主義が尊ばれ、人より得をすること、いかに楽をして儲けるかという事ばかりに関心をもち、不当なやり方で収益を得て、貪りの罪を犯し続けている現代。私たちも気づかないうちにその影響を受けているのではないでしょうか。
 エペソの教会には盗みをしていた兄弟姉妹たちがいたのです。なぜ、彼らは窃盗を働いたのでしょうか。異教世界においてキリスト者になるということは、あるいみ仕事を失うことも覚悟しなければならない厳しい状況がありました。新しく仕事に就くことは、簡単なことではありません。でも、窃盗を働きこともできません。なぜなら、救いに与った者は、すべてを知っておられ正しく裁かれる神様を信じる者になったからです。ですから、パウロは盗みをやめ、正しい仕事をして与えられた正当な賃金の中から困っている人に分け与える者になるようにとエペソの教会の兄弟姉妹たちに勧めたのです。
 私たちは、どうでしょうか。盗みの罪を犯してはいないでしょうか。それは、私たちの仕事に対する取組み方と関係があります。会社に勤めている方は、会社から何時から何時まで決められた仕事することで報酬として賃金を受け取ります。その決められた時間内に怠け心が働いて、仕事の手を抜くということはないでしょうか。これも雇い主から盗んでいることになります。逆も同じです。自分が経営者であり、人を雇用している場合、正当な賃金を払わないとしたらそれも盗みです。それは個人だけに限らす、日本全体にも言えることです。なぜなら、日本の企業の多くは、海外に工場を建て、現地の人々を安い賃金で働かせ、莫大な収益を得るという搾取の罪を犯しているからです。地の塩としての役割が求められる私たちは誠実に働き、与えられた報酬の中から困っている人々に分け与えることにより神様の愛の業に参与する者になることが期待されています。
 イエス様が私たちの一番の模範です。イエス様は与えられた賜物を惜しみなく分け与えられたお方です。また、イエス様は言われました。マタイ6:33参照。使徒16:31参照。神様の約束は、真実です。神様は、ご自分の命令を守る者に恵みを千代にまで施ししてくださるお方です。出エジプト20:6参照。
自分の代でこの祝福を途絶えさせてしまうことがないように自分に与えられた責任を果たし、言葉と行いにより、主から与えられた信仰を現し続け、受けるよりも与える者の幸いを証する者に変えられていきたいと願います。

  

罪を犯さないため

「わたしはあなたのために、
 あなたの信仰がなくならないように祈りました。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ルカ 22:32  

 

<罪を犯さないため>    エペソ4:26~27

  神は、人間に喜怒哀楽の感情を与えてくださいました。この感情は私たちの人生にとってなくてはならない大切なものです。もし喜怒哀楽の感情がなかったとしたら私たちの日々の生活は無味乾燥な営みになってしまうからです。しかし、感情に振り回された浮き沈みの激しい営みもいろいろな問題へと発展することもあるので自分の感情に対する取扱い方を考えてみる必要があるのです。
 では、パウロは、どのように怒りの感情を取り扱うようにと勧めているのでしょうか。パウロは、怒りの感情自体を否定していません。逆に怒るべき時に怒らないことの方が不自然であることをパウロ自身が身をもって模範を示しています。ガラテヤ2:11~21参照。パウロは、福音の真理が曲げられることに対し黙って見過ごすことができなかったのです。しかし、どんなに正しい怒りであってもその怒りの状態を持続させることを慎む事が必要です。なぜなら、それは怒りの感情がエスカレートすると怒りが憎しみに代わり、殺意へと発展していくからです。ですから、怒りの感情が自分のうちに湧き上がってきた時、人の言葉や態度が赦せないと思うような時、私たちが思い出すべきことは神様と自分の関係です。マタイ18:21~35参照。
 私たちは、自分が本当に罪を赦された者であるという自覚を持っているのでしょうか。いいえ、自覚がないから人に対して寛容な態度を示すことができないというのが事実です。もし神に対する感謝の思いがあれば、自分に対して罪を犯した者に対し、神が自分の罪を赦してくださったのだから、私もこの人の罪を赦そうと考えるはずなのです。私たちの態度が私たちの心の状態を明らかにします。ですから、自分の心の中になかなか許せない思いがあることに気づいた時、神のもとに行き、まず自分の罪を赦していただいたことを感謝しましょう。
私たちは自分で考えているよりも高慢な者であり、素直に自分の過ちを認めよとしない者たちです。高慢な心は神との交わりを不可能にします。ですから、神から自分の心のうちにある高慢な心が示された時、素直に神のもとに行き、その罪を赦してくださいと祈り求める必要があるのです。私たちが自分の犯した罪の赦しを請い求めなくなる時、サタンはそのチャンスを逃しません。サタンに自分を誘惑させる機会を与えないために、常に主の御前にひざまずき、罪の赦しを求め続ける者でありたいと願います。