小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

牧師が立てられた理由と目的

「あなたは生ける神の子キリストです。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 マタイ 16:16

 

<牧師が立てられた理由と目的>    エペソ4:11~13

 主の教会を共に建て上げるために必要なことは聖書の真理に堅く立つことです。コロサイ人への手紙に当時の様子を知る手がかりがあります。コロサイ2:8参照。このだましごとの哲学とは、のちのグノーシス主義です。グノーシス主義とは、特別な知識(グノーシス)を強調し、神及び救い主としてのキリストを否定する教えです。この教えの特徴は二元論です。特別な知識の所有者である霊的な人間は、無知な大衆とは全く区別された存在であり、至高者(神)と同一となった彼らは、二つの相反する道徳観をもちます。それは禁欲主義と放縦主義です。前者は、地上のものにけがされるのを避け、隠遁し、後者はこの世界の侵すことのできる領域は肉体と魂までであるとし、霊は世界の道徳律より上にあるので、何をしても許されるという考えです。しかし、聖書は肉体と魂と霊を分けて考えることはしません。
このような偽りの教えがこの手紙が書かれた時代、彼らの間に横行していました。そこで、パウロは聖書の真理に堅く立つように警告したのです。私たちも聖書の真理に反する教えには気をつけ自分自身も真理を語りみことばに従って生きることを選択する者でありたいと願います。また、身近な人が聖書の真理に反することをしているのを目撃した場合、愛をもって真理を語るようにとパウロは勧めています。単に真理を語るだけでなく、愛をもって真理を語るように勧めています。これはとても大切な事です。なぜなら、単に相手の間違いを指摘するだけでは相手に指摘した側の真意が十分に伝わらないからです。諭す相手が自分の教えることを素直に聞くためには、日頃からの関係も重要です。ですから、自分から声をかけ信頼関係を主にある兄弟姉妹との間に作ろうと心掛けることも必要でしょう。
また、教会の成長は、子どもの体の成長と重なります。幼い子どもはよく転びます。しかし、体が成長すると頭と胴体とのバランスがちょうど良くなり、めったに転ばなくなるものです。それと同じように私たちも、霊的に共に成長することにより、安定した教会生活が営まれるようになり、みことばの真理に従って生きることを通して、キリストのご性質に似た者に変えられます。


 神様が私たちを選び、今、この教会に召してくださり、この教会の中で霊的に成長することを期待しておられるのです。ですから、聖書の真理に堅く立ち、愛をもって真理を語り、主の教会を共に建て上げる群れになりたいと願います。</font>
 

牧師が立てられた理由と目的

「信仰の創始者であり 
 完成者であるイエスから 
 目を離さないでいなさい。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 ヘブル 12:2

 

<牧師が立てられた理由と目的>    エペソ4:11~13

 パウロはエペソの教会の兄弟姉妹に対し、主が立てられた人々がどのような人々であり、その働き人が立てられた理由と目的を記しています。これは主のからだを形成する私たちが共通した理解をもち一致して宣教する群れとなるために必要な認識です。この手紙が記された当時に限定された働き人として使徒預言者がいました。使徒の条件は、使徒1:15~26参。
次は預言者です。彼らは単に将来起ることを予告するだけでなく、神のことばを語る働きもしていました。使徒11:27参。次の伝道者とは開拓伝道をした人々です。この伝道者の働きは今も継続しているものです。最後は牧師と教師です。この二つは二つの別々な務めというよりも一対になった二つの働きです。なぜなら、牧師の務めの中で教える務めは大きいものだからです。
 では、牧師の立てられた理由と目的は何でしょうか。12節参。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げることです。
聖徒とは、福音を受け入れ、信仰をもち、洗礼を受けて教会員となった人々です。その人々を整えて奉仕の働きをさせることが牧師の立てられた理由であり、目的です。
 私たちは、救いに与り、その後、成長しなくても良いというわけではありません。洗礼はゴールではなく、スタートです。救いに与った者たちが霊的に大人になりキリストのご性質に似た者になるには、実際にみことばに従って生きることが必要不可欠です。教会は、救われた人々に対し奉仕することを勧めてきました。聖書のお話しをすることも霊的に成長する一つの機会になります。なぜなら、お話しをするには自分が聖書に書かれてある真理を理解しなければならないからです。しかし、知的な理解だけが増し加わり体を用いた実践面での奉仕が欠けるということも起こります。そこで体を使った奉仕にも積極的に関わり、仕えることの喜びを体で体験していくことも必要です。自分のためだけに生きていた空しい過去の人生を繰り返さないためにも、人々の救いに繋がることのために自分に与えられた時間と賜物を捧げる者になりたいと思います。
 私たち一人一人が喜んで教会のために奉仕することにより、主の教会は建て上げられて行くのです。私たちは、同じ主に召された者たちです。召された目的を果たすために、主から与えられた賜物を用いて互いに仕え合い、主のからだである教会を共に建て上げるという光栄な務めに参与させていただこうではありませんか。
 

 

主のからだである教会の豊かさ

「あなたがたは、今日のように、
 私たちの神、主と心を一つにし、主の掟に歩み、
 主の命令を守らなければならないのです。

              

                                                 f:id:koumi2016:20160627201619j:普通 Ⅰ列王8:61

 

<主のからだである教会の豊かさ>    エペソ4:7~10

 今日は、主のからだである教会の豊かさについて考えてみたいと思います。キリストのからだを構成する私たち一人一人は生まれも育ちも、能力も才能もひとそれぞれです。年齢も幼子から年配の方まで幅広い層の人々が神様によって召し出され、今、一つの家族とされています。ここに主のからだの豊かさがあります。教会に来なければ信仰をもつことがなければ出会うことも、交わることもない者同士が同じ主の霊により、導かれ、信仰告白に至る者とされ、同じみことばの糧に与り、互いに助け合い、励まし合い、宣教のために労する者になることが期待されています。
 主に選ばれた者である私たち一人一人に神様が与えてくださった賜物があることを覚えたいと思います。Ⅰコリント12:4~6参。
それぞれに神様が与えてくださった賜物は自分勝手に用いられるべきものではなく、教会の一致を促進させるために企画され、実行されるために私たちに与えられたものであることを覚えたいと思います。なぜなら、私たちは自分にない賜物に目を向け、つぶやいたり、不平を言ったり、ねたんだり争うこともあるからです。Ⅰコリ12:12~27参。
神様は、私たち一人一人に異なる賜物を与えてくださり、それを用いて主にお仕えすることを求めておられるのです。そして、賜物が恵みによって主から与えられたものであることを覚えたいと思います。
どうして賜物が恵みによって主から与えられたものであることを覚える必要があるのでしょうか。それは私たちが高ぶることがないためです。私たちは、油断しているとすぐに自分の能力や才能を誇る思いが湧き上がり、自分と人を比べ、自分は他の人より優れていると思い上がることがあるからです。神様が一番お嫌いになられることが高慢です。パウロも自分が高慢になる傾向があることを自覚し、同じようにエペソの教会の兄弟姉妹が高慢にならない為にそれぞれに与えられた賜物が主から与えられたものであることを詩篇68篇18節を引用することで教えようとしました。
主がそれぞれに異なる種々の賜物を私たちにお与えになったのは、キリスト者一人一人の奉仕によって、教会が建て上げられ、成長し、一致を保つためです。ですから、私たちは、キリストのからだ全体の一致と全体の益のために与えられた賜物を主のために用いる者になりたいと願います。
 私たち一人一人を召してくださった主をこれからも本気で礼拝し召された者にふさわしい歩みを実行できるように互いに執り成し祈り合いながら主のからだの豊かさを体験してまいりましょう。