小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

いつまでも残るもの

「力ある勇士よ。 
 主があなたとともにおられる。 」  
              
                                                            f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 士師6:12

 

<いつまでも残るもの>          Ⅰコリント13:8~13

 パウロは、愛のすばらしさを評価するにあたり、永遠性という物差しを用います。私たちはいつも目の前の問題に心が奪われ、動揺し、出来事を永遠という物差しで評価することを忘れるものです。仕事、結婚、失業、受験、病、死など私たちは、日々、いろいろな問題に直面します。問題に十分備えることのできる場合もあれば、突然自分の身に迫って来る失業や病や死もあります。それらの問題に対し、どのように向き合うか。考えてみる必要があるのです。
 コリントの教会には、異言を語れる者が異言を語れない者を見下し、逆に異言を語れない者は、異言を語れる者に対し、ねたみ、ひがみ、互いに裁き合う状況がありました。コリントには、異言を熱心に求める人々がいたようです。そこでパウロは 、彼らが必死になり求めている異言を永遠性という物差しで測り直し、それらのものがやがて消え去るものであることを明確にします。同じように、私たちも地上における地位や名誉や財に心が奪われることがあります。私たちが日々、追い求めているものは、やがて消え去るものか。それとも永遠に残るものか。仕事も家庭も楽しみも人生にとって重要です。しかし、永遠性という物差しを当てずに、それらのものが第一のものであるかのように熱中するなら、それは賢い生き方であるかどうか考えてみる必要があるのです。
 聖書は 、永遠に残るものとして、信仰と希望と愛をあげています。その中で一番すぐれているのは愛です。私たちは、その愛を熱心に求めているでしょうか。その愛とは、神への愛です。人への愛です。私たちは、天の父なる神様から日々、溢れるばかりの恵みをいただいています。もし今の生活に感謝がなく、不平や不満があるとするならばそれは自分の心が神様から離れ、自分の心が目の前の問題に向けられ、心に平安を失い、有限な物差しで物事を評価しているという事が考えられるのです。ですから、私たちは、いつまでも残るものに目を向け続ける者でありたいと願います。サタンは常に私たちの心を地上のことに有限なことに向けさせようと必死に働いていますがその働きに惑わされてはいけないのです。
世の人から見たら価値のないように見えることの中に本当に価値のあるものが隠されてあることを覚えたいと思います。それが十字架です。いつまでも残るものは、十字架に示された神の愛です。私たちもその神の愛を熱心に追い求め、その愛に応答し神を愛し、人を愛する者になろうではありませんか。

 

贖いによる救い

「私と私の家は主に仕える。 」  
              
                                                            f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨシュア24:15

 

<贖いによる救い>          ローマ3:23~24

 救いについて教える宗教は、キリスト教以外にもいろいろあります。しかし、その救いが 「贖い」に結びつけられている宗教は、キリスト教だけです。今日は、救いにおける「贖い」がどういうものなのか共に考えてまいりましょう。
 贖いとは、もともと奴隷市場で使われていた言葉です。奴隷市場で競売にかけられた奴隷を、代価を払って自分のものにするという意味から使われていた言葉が贖いです。その言葉をパウロは奴隷を代価を払って自分のものにするという意味ではなく、旧約聖書の中で人間が犯した罪の身代わりに動物が犠牲として捧げられ人間の犯した罪が赦されるという意味で贖いという言葉を使用しています。旧約時代は、動物が人間の罪を贖うために捧げられてきましたが、それは御子であられるキリストの十字架の犠牲を予表したものだったのです。
天の父なる神様は、アダムたちの恥をおおうため、皮の衣を作るために動物の血を流されたように、私たちの罪を贖うために、イエス様を十字架に架けることにより、イエス様の尊い血を流させてくださいました。それほどまでに、天の父なる神様は子どもである私たちを愛してくださっているのです。罪ある私たちの救いの根拠は、キリストの贖いにあります。そして、罪の赦しは、ただ、イエス様の十字架を受け入れること、そのことだけです。イエス様は、罪の性質をもつ私たちに代わって律法を完全に守ることにより 、きよい生贄としての条件を満たされ、罪の贖いを成し遂げ、人が御前に義とされる道を備えてくださいました。聖書は、救いは報酬ではなく、恵みにより与えられるものだと宣言します。
 恵みとは、それを受けるに値しない者が受ける神からの不当な祝福です。本来 ならば罪人である私たちが義と認められることは100パーセントありません。義なる神様の御前に罪人である私たちが出ることは滅びを意味しています。しかし、今、こうして御前で礼拝することが許されているということは、罪が贖われて義と認められている証拠です。
宗教改革者ルターは今朝の聖書箇所のみことばから人間は、行いではなく、
「ただ 、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」という真理に出会うことができました。最後に残るものは、みことばの真理です。どのような時代になったとしてもみことばの真理に堅く立ち、贖い主であられる主の十字架を仰ぎつつ、御前に歩む者でありたいと願います。 

 

神の御住まいとなる

「もし私たちが自分の罪を告白するなら、
 神は真実な方ですから、その罪を赦し、
 私たちをすべての不義から清めてくださいます。 」  
              
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<神の御住まいとなる>      エペソ2:20~22

 パウロは教会を3つのものに譬えてきました。
一つ目は、神の国の民です。二つ目は、神の家族です。そして、三つ目が建物です。
神の国の民から、神の家族、すなわち神の子とされ、神に近づくという意味で民よりも、子どもは父なる神様に近い存在であり、神と親しい関係であることが分かります。そして、神の子の集まりである教会は、神の御住まいとなると今日の箇所で教えています。では、教会が神の御住まいとなるとはどういう事なのか共に考えてまいりましょう。
 賢い建築家であるパウロは、教会を建物に譬え、その土台が使徒預言者であると宣言しています。20節参照。土台は、建物にとって一番重要な部分です。教会にとっても土台は同じように重要です。パウロが言っている教会とは目に見ることのできる礼拝堂のことではありません。主によって召し出されたキリスト者の群れを意味しています。キリスト者の群れにとって一番重要なものはなんでしょうか。それが使徒預言者です。使徒とは、復活されたキリストに出会った人々であり、キリストの復活の証人となるべき人の事です。預言者は、神様から直接啓示を受けた人々で御霊の働きにより、神様からいただいた啓示のことばを人々に教えていました。使徒預言者に共通する点は、どちらも福音を宣べ伝えていたことです。福音の中心は、キリストの死と復活のメッセージです。ですから、使徒預言者が教会の土台であることと、キリストご自身が教会の土台の礎石であることは合致します。なぜなら、使徒預言者が宣べ伝えていたことはキリストご自身のことだからです。
 私たちは、その使徒たちと預言者たちの証言の上に教会を建て上げることが求められるのです。私たちは、その変わらないみことばの真理に従って生活することが求められているのです。教会の歩みもみことばに沿って営まれることが必要です。今、主は何を教会に求めておられるのでしょうか。一番は、福音を宣べ伝えることです。教会が力強く宣教するためには一致が欠かせません。一致して宣教するには私たち一人一人が共に成長し、みこころを実行する者になることが必要です。主にある兄弟姉妹を受け入れ、励まし合い、助け合いながら共に宣教する者になりたいと願います。そして、自分が神の御住まいとしての教会の一部を構成していることをいつも忘れずにこの尊い役割を畏れと感謝をもって担わせていただこうではありませんか。