小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

御国を受け継ぐ私たち

「みことばを行う人になりなさい。
 自分を欺いて、ただ聞くだけの者と
 なってはいけません」」

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヤコブ1:22

 

<御国を受け継ぐ私たち>      エペソ1:11~12

 パウロは、これまで過去においてキリスト者が神からいただいてきた恵みについて賛美してきました。人間の救いが神の選びのうちに世界の基の置かれる前から決まっていたこと、神の予定は必ずそのとおりになること、そして、人類は罪か贖われた者であることを確認してまいりました。さらにパウロは、キリスト者が、将来、受けることになる御国について神をほめたたえずにはいられなかったのです。
 しかし、私たちは、どうでしょうか。将来のことよりも、地上で栄えることに目が向けられているということはないでしょうか。私たちは、もう一度、御国を将来受け継ぐことになる御国の相続者たちであることに心を向ける者になりたいと思います。なぜなら、私たらは将来世界や御使いさえもさばく者になるからです。Iコリント6:2~3参照。
 私たちは、霊的に成長し大人になっているでしょうか。霊的に成長するためには、信仰ゆえの苦難を避けて通ることはできません。なぜなら、御子が復活の栄光を前に十字架の苦難の道を歩まれたお方だからです。ピリピ1:27~29参照。
どうして、私たちに苦難が必要なのでしょうか。それは、私たちが霊的に成長するためです。ピリピ3:8~21参照。私たちは、イエス様を主として信じ、自分の心の玉座にお迎えした時から天に国籍を持つ者としての歩みがはじまりました。しかし、現時点で救いが完成したわけではなく、その完成はキリストが再び地上に来られる時まで待たなければなりません。私たちは、単に天国に入ることが目的で救われるわけではなく、地上において天国人として生きることにより、私たちを救ってくださった神に栄光を帰す者になるために存在していることを忘れてはならないのです。
 パウロは、エペソ人への手紙の頌栄(1~13)の中で何度も神をほめたたえています。エペソ1:3、6、12、14参照。この神をほめたたえることは、すべての人間が本来なすべき一番の務めなのです。私たちは神から期待されています。まことの神を畏れ、神の子として、御国の民として地上において神を愛することを実践する者になることを期待されているのです。
そして、私たちが救われた目的の一つであるキリストに似た者になるには、みことばに従って生きた体験が必要です。御子から愛された者として、御子が愛される者を私たちも愛することにより、天の父なる神様に栄光が帰されるように生きることを選択してまいりましょう。

みこころの奥儀

「まず神の国と神の義を求めなさい。
 そうすれば、これらのものはすべて、
 それに加えて与えられます。」

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ6:33

 

<みこころの奥儀>      エペソ1:8~10

 世界のはじまりがあったように世界の終わりも必ず来ます。私たちは、目まぐるしく変化する世の中に生かされていることにより、自分たちが最終的にどこに向かって歩んでいるのか忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。
 世界の終わりについて聖書は、いつその時が来るのか。その事については沈黙します。人間は、いつ世界の終わりが来るのか。知りたいと考えますがその期待に聖書は答えません。それを知ることは人間には許されていないからです。ただし、神は聖書を通して救いに与った者にだけ世界の終わりに何が起るのかを教えてくださるお方なのです。それが今日の聖書箇所に啓示されています。10節参照。「時が満ちて計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも、一切のものが、キリストにあって、一つに集められることです。」最終的にはすべての被造物が御子のもとに集められる日が来ます。その時、本当の意味で罪の問題が解決され、真の和解が神と人との間に、自然界と人との間にもたらされる時が来るのです。いやすでにその和解の業は始まっています。なぜなら、キリストを主として自分の心の玉座にお迎えする時、その人の罪が赦され、神との和解が成立し、人間関係における和解も可能となるからです。
 人間関係における争いの原因は、人間のうちにある罪です。自分が罪人であることが自覚でき、自分の犯した罪を素直に認めることができるようになると、その罪を赦してくださる神のあわれみ深さに目が開かれはじめます。そして、神に罪を赦していただいた者は人に対しても寛容な態度を示すことができるように少しずつ変えられていくのです。地上においては、争いが完全に絶えることはありませんがどちらか一方が救いに与ると復讐し合う関係が変わりはじめるのです。そして、キリストが地上に再び来られる時、すべての人がキリストのもとに集められ、キリストに従い、互いに愛し合う者となり、対立、分裂、争い、憎しみはなくなります。
 世界の終わりに起こる神のご計画は必ずその通りになるのです。なぜなら、世界は神によって創造され、神によって維持され、神によって統治されているからです。人間はその中に生かされている存在に過ぎません。霊的な存在である悪魔や悪霊もキリストによって征服され新しい秩序が樹立されるのです。Iコリント15:24参照。聖書からみこころの奥義を知ることができる人々がさらに増し加えられるように祈りつつ福音を宣べ伝えてまいりましょう。

救いの土台

「天にいます私たちの父よ。
 御名が聖なるものとされますように。
 御国がきますように。」

                                                       f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ6:9~10

 

<救いの土台>      エペソ1:7

 私たちは、生まれながらに背きの罪の性質をもつ者としてこの地上に誕生します。神様は、最初の人間を罪の性質をもたない完全な者として造られましたが罪を犯す可能性を人間に残されたのです。
人間はどのようにして神様に対して背きの罪をもつ者になったのでしょうか。
創世記3:1~7参照。
 アダムたちは、サタンの誘惑に負け、神様が食べてはいけないと命じられた一本の木から取って食べることを選択したのです。この時から、全人類は背きの罪の性質をもつ者になりました。神様の命令に従って生きることよりも、自分のやりたいように、生きたいように生きる者になることを全人類はアダムにあって選択したのです。そして、全人類は、背きの罪の結果、自分の否を認めずに自分の犯した罪の責任を人や状況や環境に転嫁する者となりました。人間の世界から争いが絶えないのはその為です。
では、人間がその悲惨な状態から解放される道はないのでしょうか。 一つだけあります。それが神様と人間の霊的な関係が回復される道です。その回復の方法として神様が選ばれたものがイエス様の十字架の血による贖いです。この血による贖いとは、罪を一度も犯されなかったイエス様が十字架にかけられ、 血を流されることにより、神様の人間が犯した罪に対する怒りが宥められ、神様の義の要求が満たされ、人間の犯した罪が赦される道が備えられたというものです。
 聖書が教える救いは、客観的な面と主観的な面の二つに分けられます。御子の血による贖いが客観的な面であり、私たちがそれを信じる前に、神は私たちが信じさえすれば救われるようにと、その救いの土台を神様がすえてくださったのです。この救いに関する客観的な裏着けがある宗教はキリスト教だけです。そして、イエス様が自分の罪の身代わりに十字架上で死んでくださったことを信じ、受け入れる時、その人の罪は赦されます。これが救いに関する主観的な面です。神の御子であられるイエス様の犠牲以上に完全なものはありません。罪を一度も犯したことのないお方の血が流されることにより、どんな罪も赦される道が備えられたのです。
 罪の赦しのために、神様が全力、文字通りいのちがけで救いの御業を計画し実行してくださったことを覚えましょう。しかも、その救いは完全な救いです。根拠のある裏付けのある確かな救いです。神様が人類を救うために備えくださったこれらのことを心にとめる時、天の父なる神様と子なるイエス様と聖霊なる神様の御業をほめたたえずにはいられません。