小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

望みを抱いて生きる

「わたしはあなたとともにいて、
 あなたがどこに行っても、あなたを守り、
 あなたをこの地に連れ帰る。
 わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、
 決してあなたを捨てない。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 創世28:15

 

<望みを抱いて生きる>     使途27:1~26

 パウロたちは、船でロ一マに向かいましたがその歩みは遅々として進みません。 その理由は断食の季節 (10月中旬)も過ぎていた為、もう航海は危険な状況でした。パウロは航海の中止を提案しますが百人隊長はパウロの言葉に耳を傾けるよりも航海士や船長の意見を受け入れ、クレテの港ピニクスに向け出航します。
 クレテの港を出航した船は、まもなくユーラクロンという暴風に遭遇します。人々は流れにまかせ、自分たちの命もこれまでだと誰もがあきらめ、死を覚悟します。 13~20参。しかし、絶対絶命の状況下で希望を失うことなく、立ち上がる者がいました。それがパウロです。彼は、状況に慌てふためくことなく大胆に自分が確信していることを宣言します。21~22参。パウロは強がりでもなく、張ったりでもなく、冷静に物事を見て判断し自分が何によって人々の救いを宣言しているか説明します。23~26参。

パウロたちの置かれている状況は、人間的に見るならぱ絶望的な状況です。しかし、八方塞がりの状況でも、必ず脱出の道が備えられているとパウロは確信できたのです。それはパウロが何度も絶対絶命のピンチの中から神様によって救い出された経験があった為です。そして、何よりパウロには、どのような状況下でも神様にはおできにならないことは一つもないことを確信できる信仰が与えられていました。それでもパウロも長引く嵐の中でこのままでは自分も含め全員の命が危ぶまれる事態は避けられないと思ったかも知れません。しかし、パウロは、神様のご計画と約束がある限り、どんな状況下からでも必ず神様ならば救い出してくださると信じることができたのです。
 パウロの姿とアブラハムの姿が重なります。ローマ4:18~21参。
アブラハムは、神様から子どもが与えられるという約束をいただいていました。 しかし、何年待ってもその約束は実行されずアブラハムの年齢は、99歳になっていましまた。人間的にみるならばアブラハムから子孫が出る可能性は0パーセントです。でも、アブラハムは神様の約束を信じたのです。無からすべての物を創造された神様におできにならないことは一つもない。パウロにも、ローマヘ行き、カイザルの前に立つという約束が神様から与えられていました。ですから、パウロも望みえないときに、望みをいだいて信じることができたのです。
 私たちも彼らと同じ信仰が神様から与えられています。みことばに従って生きる時、今も生きて働いておられる神様がおられることを体験することができ、絶望的な状況でも望みを抱いて生きるキリスト者となり、試練と向き合う勇気とカが与えられるのです。

 

キリスト者の任務

「主のはかられることは、とこしえに立ち、
 みこころの計画は代々に続く。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇33:11

 

キリスト者の任務>     使途26:1~32

 人々の関心は、地上で栄えること、自分の欲望を満たすこと、人の上に立ち支配者となること、それはイエス様の弟子たちも同じでした。弟子たちは最後の最後まで弟子の中で誰が一番偉いかと争ていました。その証拠に弟子たちは、イエス様が囚われるとイエス様を一人残しみな逃げ出して行きました。彼らはいざとなると自分の地上におけるいのちの事しが考えていなかったのです。それは、現代も同じです。イエス様を信じた私たちも主のために苦しむことを好みません。なるべく、世の人と同じように生き、真理に従うことにより周りの人との衝突が起きないようになすべき真理を知りながら真理に背くことをしている場合があるのです。しかし、それではまことの神様を信じていることをどうして人々は知ることができるでしょうか。私たちの生き方が問われているのです。神と人の前で公明正大な生き方を選択することが求められています。
 パウロの生き方は、誰の目にも明らかであり、証言する者も沢山いた事実です。彼はユダヤ教に熱心であり、律法を忠実に守り、キリスト者を捕らえるためにダマスコまで追撃するほど神様に対し誠実に生きた人です。しかし、パウロは自分のしてきたことが間違っていたと告白しています。罪には「的外れ」という意味があります。パウロは、キリスト者を捕らえることが神様に喜ばれることであると本気で考えていましたがそれは的外れな行為だったのです。そして、自分の間違いを正されたパウロは、生き方の軌道修正をいただき、キリストの復活を証する人に変えられたと証しします。4~23参照。
 パウロは主の約束どおり王の前で福音を証するチャンスを与えられ、彼はそのチャンスを最大限に用いました。この後、フェストやアグリッパ王や同席した人々がイエス様を信じるようになったが分かりません。しかし、私たちもパウロのように人々に対し自分を救ってくださったお方の事を証する責任を果たしましょう。
 「あなたがたは世界の光です。山の上にある町は隠れることができません。」私たちは、この世において光であられるイエス様ご自身のことを証する使命が与えられています。世の人々は私たちのうちに光であられるイエス様の姿を見ることができているでしょうか。イエス様はパウロを通して福音を聞いた人々が救われる姿をご覧になられ喜んでおられたはずです。イエス様は、あなたを通して、福音を聞き応答する人々が起こされることを期待しておられるのです。キリスト者の任務は、社会において公明正大に生き、主の救いの街業の素晴らしさを証し、すべての人が主をほめたたえる者となることです。
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キリスト者の希望

「わたしは世の終わりまで、
 いつもあなたがたとともにいます。」

                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain マタイ28:20

 

キリスト者の希望>     使途25:1~27

 パウロは総督ペリクスの職務怠慢故に2年間、監禁生活を強いられます。パウロはその間、祈りつつ備えていたのです。そして、ついにパウロにチャンスが訪れました。それは総督の交代です。しかし、パウロにとってのチャンスは、パウロのいのちを狙うユダヤ人にとってもチャンスです。パウロよりも先にパウロのいのちを狙う人々が動き始めます。l~3参。パウロのいのちを狙うユダヤ人にとってパウロの存在は、監禁されているとはいえ脅威以外の何ものでもありません。なぜなら、パウロが再び、自由にされるならばユダヤ教にとって自分たちの立場が脅かされる状況になることは明らかだからです。ところが彼らの思い通りには事が進みません。新しい総督のフェストは、賢い人でありユダヤ人の口車に乗ることはなく、ユダヤ人のパウロ暗殺計画は無駄に終ります。4~5参。しかし、ユダヤ人たちはあきらめません。フェストの提案を受け入れ、彼らはカイザリヤまで約100キロの道のりを移動し、パウロを訴えます。6~7参。
パウロは 冷静に弁明し、自分の無実を主張します。8節参。フェストは、パウロの無実を知りながら、ユダヤ人の歓心を買うためにパウロエルサレムでの裁判を願うかと尋ねます。すると、フェストの思惑とは違う返答がパウロの口から発せられたのです。10~11参。フェストは、パウロの返答に戸惑いながらもパウロの上訴を退けることはできません。なぜなら、ローマ市民には裁判の判決に不服があった場合、カイザルに上訴できる権利が与えられていたからです。こうして、パウロは長年の願いであったローマ行きを囚人という立場でしたが獲得することができる道が開かれたのです。
 パウロはこれまで何度も先の見えない状況の中に置かれることがありました。無実の罪で鞭打たれ、投獄され、石打ちの刑を経験したこともあります。その他にも盗賊の難、海上の難など試練や迫害の中を歩んできました。パウロが希望を失うことがなかったのは、彼がいつも復活信仰に生きていたからです。パウロの死生観は、死んで終わりではなく、かの日に自分も必ずよみがえらされれるというものです。Iコリント15:1~22参。
 私たちの希望もパウロと同じです。ですから、私たちもどんなに今生かされている時代が先の見えない混沌として状況であっても希望を失う必要はありません。これまで通り、いつものように主日礼拝を中心にした生活を淡々と送り、日々、みことばに従って与えられた持場、立場で自分の役割を忠実に果たし、主が出会うことを赦してくださった人々に福音を宣べ伝えてまいりましょう。
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