小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

救われるために必要なこと

「あなたのみことばは、私の足のともしび、

 私の道の光です。」
                                     
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇119章105節

 

<救われるために必要なこと>       使途 16:19~34

占いの霊に憑かれた女奴隷の妨害からやっと解放されたパウロたちでしたがさらに大きな試練が彼らの前に立ちふさがります。なぜなら、無実の罪で訴えられ、むち打たれ、投獄されることになるからです。パウロたちは、考えたことでしょう。どうして、神様はピリピの町に自分たちを導いておきながらサタンの妨害に会うことをお許しになられるのだろうか。今、自分たちが受けている試練の意味と目的を教えてくださいと彼らは主に祈ったことでしょう。主よ。なぜ、このような妨害が起こるのを許されるのですか。神様は、彼らに即答されることなく、しばしの沈黙をもって答えられます。
私たちも、パウロたちと同じような経験をしてきたのではないでしょうか。神様を信じたのにどうして次から次へと試練が与えられるのだろうか。こんなことなら、信じなかった方が良かったと思うことも正直あるでしょう。しかし、ずっと先まで見通される神様です。きっとすべての事には意味と目的があることを信じましょう。
パウロたちは牢獄の中で今、受けている苦しみが神様のご計画の中にあり、この後どのような御業がなされるのだろうかという期待に変わります。なぜなら、パウロたちは不平や不満が口からこぼれても仕方のない状況下で主に向かって賛美しているからです。
牢の中で賛美するパウロたちに神様は、御腕を動かされ彼らの賛美に応えられるかのように大地震を起こされたのです。(25~26参照。)
地震により獄舎の土台が揺れ動き、牢の扉が開き、囚人たちを繋いでいた鎖も解けてしまいます。 看守は、囚人が逃げ出したと考え、責任をとって自害することを決断します。しかし、パウロは大声で言います。「自害してはいけない。私たちはみなここにいる。」看守は、震えながらパウロたちに尋ねます。「先生がた。救われるためには何をしなければなりませんか。」パウロたちは「主イエスを信じなさい」と彼に答えます。これが人間に与えられた救われるために必要な条件です。
救いとは、 キリスト教の教理をすべて理解することによってもたらされるものではありません。律法を守ることによって得られるものでもありません。ただイエス様を信じてイエス様の手にすがりつくならば誰でも救っていただけるのです。それは、人間を救うのは100パーセントイエス様の力であり、人間の力は一切必要ないことを意味しています。この素晴らしい救いの良き知らせを伝えてまいりましょう。

祈り (鈴木聖仕 牧師)

「これらのことが書かれたのは、
 イエスが神の子キリストであることを、
 あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、
 イエスの御名によって、いのちを得るためである。」
                               
                               
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ヨハネ20章31節

 

<祈り>       マルコmark 1:35

1.日常の祈り
エス様の祈り。それは日常の祈りです。そして、イエス様がどんなに忙しい中であっても祈りの時間を、神様との時間を聖別しておられたということ。時には朝早く暗いうちに起きて、時には、群衆に別れを告げ山で。


2.誘惑に陥らないように祈る    ル力 22:40
これは、ゲッセマネの祈りです。イエス様は弟子たちに誘惑に陥らないように祈っていなさいとおっしゃられました。ここでは弟子たちはイエス様が祈っているときに眠ってしまうのです。誘惑に陥るとはサタンの策略にハマることです。祝福のあるところにサタンは巧妙に入ってきます。疲れているときに、隙のあるときに攻撃を仕掛けてきます。そんなときには特に祈ることが重要です。自分の思いや自分の力により頼まないために、サタンの付け入る隙を与えないために神様との会話が私たちにはどうしても必要です。神様との会話をしているだけで、サタンは攻撃をやめてしまいます。イエス様が近くにいるときにサタンは何もすることができないからです。


3.他の人のために祈ること    マタイ5:44  エペソ6:18 
自分の敵を愛し、迫害するもののために祈るようにすすめています。いや 命令しています。学校の、職場の、家族のあの人のために祈るように。どんな時も私たちは生きておられる主に祈りをささげる。祈りも自分の力でしない。御霊によって祈る。聖霊の力に頼って祈る。でも時に祈れないことがあります。そんな時は、誰かに祈ってもらうことです。自分で祈る祈りと誰かに祈ってもらう祈りこれは同じ神様が働いてくださる祈りです。他の人のために祈る、祈れない時には祈ってもらうこと、これはとても大切です。

主の御名による解放

「人はみな草のようで、その栄えは、みな草の花のようだ。
 草はしおれ、花は散る。しかし、主のことばは、
 とこしえに変わることがない。」
               
                               
                f:id:koumi2016:20160627201619j:plain Ⅰペテロ1章24~25節

 

<主の御名による解放>       使徒16:16~18 

パウロたち一行は、ピリピで占いの霊に憑りつかれた女奴隷に出会います。その女奴隷は、パウロたちの宣教を妨害し、困り果てたパウロは、主の御名によって占いの霊を女奴隷から追い出します。占いの霊に憑りつかれた女の人が悪霊の力から解放された後、イエス様を信じたかどうかは分かりません。しかし、イエス様の御名によって悪霊の力から解放されたことだけは確かです。
私たちも、イエス様の御名によっていろいろなものから解放された者たちです。ある人は、金銭の奴隷となり、すべてを犠牲にして仕事に没頭してきたことでしょう。そして、イエス様と出会い、金銭よりも大切なことがあることに気づいたはずです。また、ある人は、地位や名誉を得るために多くのことを犠牲にしてきたかも知れません。しかし、イエス様と出会い、求めていたものが空しいものであり、もっと大切なことがあることに気づいたはずです。心の中で神様よりも大切なものがみな偶像となります。神様はその人の心が偶像の奴隷となることを悲しまれるのです。イエス様は、奴隷の状態から私たちを解放するために十字架にかかられたのです。どうして、イエス様が十字架にかかることが私たちを罪の力から解放することになるのでしょうか。それはイエス様を信じた時、私たちはイエス様と一つにされ、イエス様が十字架にかかり死なれた時、私たちの自我もイエス様と一緒に死んでいるためです。(ローマ6:6~13参照)
死んだ者は、すでに罪の奴隷状態から解放されています。罪の奴隷状態からの解放とは、罪を犯さなくなるという意味で はありません。救われる以前、罪を犯すことしかできなかった者が罪を犯さない選択肢をもつ者と変えられることを意味しています。実際に、私たちは日々、罪を犯すかどうかを選択しているはずです。自力でサタンの誘惑に勝つことはできませんが、聖霊様の力をいただくことにより誘惑に打ち勝つことができるのです。
聖霊様の力にいつも満たされてサタンの誘惑を退けることができるように祈り続けましょう。自分は大丈夫であると考えることほど危険なことはありません。占いの霊から解放された女の人も油断していると前の霊が他の霊を引き連れ戻ってくる場合もあります。イエス様に心の王座に着いていただくことが必要なのはその故です。イエス様は、悪霊よりも力のあるお方であるため、悪霊の働きから守ってくださいます。自分の霊の状態が正常な状態となっているか常に点検し、自分のために、家族のために、そして、これから救われる人々のために、聖霊様の助けを祈り求め、とりなし祈り続ける者になりましょう。