小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

罪の本質

「すべての人を照らすそのまことの光が、
 世に来ようとしていた。」                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plainヨハネ1章9節

 

 <罪の本質>      ヨハネ1章9~13

聖書の教える罪とは何を意味しているのでしょうか。人間がはじめて罪を犯した時の状況に目を向けてみましょう。創世記3章1~6節参照。
このようにして、人間は罪をもつようになりました。神様は、アダムたちが罪を犯す前にアダムに対し、一つの命令を与えておられました。その命令とは、創世記2章16~17節参照。
神様がアダムに与えたたった一つの命令とは、善悪の知識の木からは取って食べてはならないという命令でした。この命令がアダムに与えられたのは、アダムがこの善悪の知識の木を見るたびに、自分は神様からすべての祝福をいただいていることを思い出させ、自分の力で生きているのではなく、神様によって生かされていることを自覚させ、彼を謙遜にし、神様に感謝をささげ、彼を礼拝者として整えるためでした。また、取って食べてはならないと命じられた木が善悪の知識の木と呼ばれていることから、人間にとっての善と悪をお定めになられるお方は神様だけであることをアダムたちに自覚させるためでもありました。しかし、サタンは人を誘惑し、「あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになると」とささやきます。サタンは、人間が人間としての分を超えて思い上がり、神のようになれると騙し、人間に創造主であられるお方を押しのけて、自分を神として生きよと言って誘惑し、まんまとアダムたちをたぶらかすことに成功します。ですから、アダムたちが善悪の知識の木から取って食べたという行為は、神様に対する反逆行為であり、神などいらない。自分の人生の善悪は自分で判断し、自分で決めることを表明したことになるのです。
よって聖書が教えている罪の本質は、主権者であられる神様に対する反逆であり、神様なしで生きられると考える思い上がりのことです。この罪の問題が解決しないかぎり人間は真の幸福を得ることができません。そして、罪ある人間には自力で罪の問題を解決することができないのです。しかし、光であられるイエス様を心にお迎えすることにより、私たちの心は以前とは比べられないほど明るくされ、さらにイエス様の十字架の血で清められ、大胆に御前に近づくことができる者とされているのです。へブル10:19~22参照。また、毎週、礼拝を捧げることができるということは当たり前のことではなく、神によって生まれた者に許された特権だと聖書は教えています。ヨハネ1:12~13参照。
馬小屋のように暗く、汚い、私たちの心ですがイエス様が共に居てくださることにより私たちの心は、明るくされ、きよめられ、人々が喜んで憩うことのできる幸いなところと変えられていくのです。この素晴らしい福音をまだ知らされていない人々にお伝えするためにも神様との時間を優先し、神様との交わりの喜びを日々、体験する者になりたいと願います。私たちは、いつも接するものに似たものとなります。<br>
ヨハネ1:6~10.Ⅱコリント3:16~18参照。

神の愛

「彼は光ではなかった。ただ光について
 あかしするために来たのである。」

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plainヨハネ1章8節

 

 <神の愛>      創世記22章1~13

アブラハムは、人生最大の試練を経験することになります。その試練とは、自分の愛するイサクを全焼のいけにえとして捧げよとの神様からの命令です。神様のアブラハムに対する命令は、一見神様のアブラハムに対する約束と矛盾するように思われます。なぜなら、神様はアブラハムの子孫からイサクの子孫から救い主が誕生すると約束しておられたからです。そのイサクを全焼のいけにえとして捧げてしまったらその神様の約束が果たされなくなります。その疑問の答えは、へブル11:17~19を参照。
とにかく、アブラハムは神様の命令に対し、どのように応答するか試されることになります。アブラハムは、神様の命令に従ってイサクを連れて神様が指定された場所に向かって出発します。そして、アブラハムは神様の命令に従って祭壇を築き、イサクを縛り、刀を振り上げます。このアブラハムの受けた試練を黙想する中でヨハネ福音書3:16のみことばが頭に浮かんできました。そして、アブラハムの姿と天の父なる神様の姿が重なったのです。天の父なる神様は、愛するひとり子であられるイエス様が多くの試練を経験することになることが分かっていました。そのイエス様を地上に遣わす時、どのような心境だったのか。自分の愛する子が人々から苦しめられるのを知ったうえでわざわざ危険な場所に送ろうとする親はいません。しかし、天の父なる神様は、それを実行されたのです。
神様は、一番大切なものを犠牲にしてでも人間を滅びから救い出したいと本気で考えられたお方です。人間を滅びから救う方法は、罪のない完全ないけにえの血が流されることでした。イエス様の血が流されることによらなければ人間の犯す罪を赦すことができない。それほど人間の罪は重いのです。創造主の存在を無視し自分勝手に生きている人間の罪を赦すために天の父なる神様がどれほど苦しまれたか覚えたいと思います。
神様の愛は、イエス様の十字架の死を通して実証されました。神様は、目で見ることのできるものしか信じようとしない心の鈍い私たちのために見て分かる形でイエス様の十字架の死を通して、天の父なる神様の愛を明らかにしてくださったのです。そして、イエス様も天の父なる神様のご計画に従い、十字架の道を歩まれ、人間に対する愛を証明してくださったのです。イサクが従順に縛られたようにイエス様も捕えられ、十字架に架けられました。アブラハムとイサクが強い信頼関係で結ばれていたように天の父なる神様とイエス様も強い信頼関係で結ばれていたのです。私たちも、天の父なる神様との信頼関係を強める努力をするものでありたいと願います。信頼関係は、神様の命令に従うことによって作られます。祈りつつ、神様の命令に従う時、神様が必要な力と愛と勇気を与えてくださるのです。失敗を恐れずに、みことばに従い。神様の祝福をいただく者になりましょう。私たちがみことばに従う時、そこに神の愛が現わされていくのです。

使途に生きる

「今、神、主よ。あなたこそ神であられます。
 あなたのおことばはまことです。
 あなたは、このしもべに、この良いことを
 約束してくださいました。」  

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plainⅡサムエル7章28節

 

 <使途に生きる>   使途(acts)8章14~25

シモンは、ペテロたちが祈ると聖霊が人々のうちに与えられ、彼らが異言を語るのを見て自分も聖霊を与える権威を手に入れたいと考えたのです。そして、シモンはお金を払い、その聖霊を授ける権威をくださいとペテロたちに懇願します。ペテロは、シモンに対し厳しい返答をしていきます。「あなたの金はあなたとともに滅びるがよい。あなたは金で神の賜物を手に入れようと思っているからです。」聖書に「金銭を愛することがあらゆる悪の根だからです」という言葉があります。Ⅰテモテ6:9~10参照。
金銭自体は、悪いものではありません。しかし、金銭にどれほど多くの人々が心を奪われているか考えてみる時、気をつけていなければ取り返しのつかない事態となることを覚えたいと思うのです。シモンが聖霊を求めた動機は何だったのでしょうか。それは自分も使徒たちのように聖霊を授ける権威をもち、人々に聖霊を授けることで人々からの尊敬を受けたいと考えました。そして、尊敬だけでなく金銭も手に入れることができると企んだのです。なぜなら、当時から権威をお金で売りかえすることができると考えられていたからです。権威をお金で買えると考えたシモンにも、悔い改めるチャンスが与えらます。使徒8:21~23参照。
シモンは、イエス様を信じましたが生き方が変わっていませんでした。救われる以前と同じようにお金の奴隷となっていたのです。金銭の奴隷となったままでは神様から与えられた使命を全うすることはできません。私たちも、神様と自分の関係を見直してみる必要があります。自分が神様より上になっているならば即刻、神様の御前にその罪を認め、悔い改める必要があります。そして、私たちは神様から与えられた使命を果たすために生き方を改める必要があるのです。では、私たちの使命は、何でしょうか。あらゆる国の人々に福音を伝えイエス様の弟子とすることです。マタイ28:18~20参照。私たちにはこの尊い使命が与えられています。世界には、福音を聴いた事のない人々が沢山います。私たちの身近にも福音を聴いたことのない人々が満ちています。では、この使命を果たすために私たちにできることは何なのでしょうか。それはこれまでもしてきたことを忠実に実行していくことです。それは、家族や身近にいる人々の救いのためにとりなし祈り、愛を注ぐことです。そして、私たちが本気でみことばと向き合い、本気で変わりたいと願う時、聖霊にすべてをゆだねる時、私たちの生き方が変わるのです。自分中心の生き方から、神様中心の生き方に変わります。一歩でも二歩でも神様の方に向かって歩むならば、いつか私たちもその生き方を通して神様に栄光を帰する日が来るのです。