小海キリスト教会 礼拝メッセージ

小海キリスト教会の礼拝メッセージと御言葉を紹介します。。

福音の力を信じる

「神のみこころは何か。
 すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、
 完全であるのかをわきまえ知るために、
 心の一新によって自分をかえなさい。」    

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain ローマ12章2節

 

 <福音の力を信じる>   使途(acts)8章9~13

今日の箇所には、シモンという摩術を行う者が登場しています。昔も今も、人間は驚きを利用し人々の心を惑わし、人々の関心を自分に向けさせようとしてきました。しかし、どんなに驚くべき業がなされても、それが聖霊によってなされているのでなければ本当の意味で人間の救いとはなりません。
人間の罪と死の解決は、福音でなければどうすることもできないことがらだからです。福音が宣教されるまでサマリヤの人々は、シモンの摩術に騙され、人間の罪と死の問題に対し関心を抱くことができない状態にあったのです。
 今の日本の状態も、福音よりもその他のものに人々の関心が向けられていることを覚える時、サマリヤの人々と私たちの置かれている状況が重なります。
私たちは、もっと祈らなければならないのです。共に集り、共に主の御名により祈るところに聖霊が働いてくださいます。聖霊によらなければ誰もイエスを主ですと告白することはできません。私たちの身近な家族や友人や知人の救いのために真剣に祈り求める者になりたいと願います。
 この世が私たちに与えることのできるものは一時的なものです。短い期間、繁栄することができたとしても、その後、滅びが待っていることを覚えたいと思うのです。私たちは、罪に対する裁きがあることを聖書から知らされた者たちです。死後のさばきがあるからこそ、私たちは真剣に祈るのです。愛する家族が永遠の滅びに入るようなことにならないように聖霊の働きを祈り求め続ける者でありたいと願います。そして、先に救われた私たちが罪の力から解放されて、聖霊の助けをいただいてみことばに従って生きるなら、その生き方を見た人々が福音に関心を示すようになるのです。福音には、力があります。霊的なことに無関心だった私たちを福音に耳を傾ける者に変える力があります。
「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」このおことばの通り、私たちは信じて救われました。人間の努力によってではなく、100パーセント神様の恵みにより造り変えられたのです。心の頑なな私たちを根本的に造り変えたみことばの力を信じみことばに従って生きる決断を日々新たにする者になりたいと願います。

天国人として生きる

「人は心に自分の道を思い巡らす。
 しかし、その人の歩みを確かなものにするのは、
 主である。」

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 箴言16章9節

 

 <天国人として生きる>   ピリピ3章17~21

パウロの生き方から私たちが見習うべきことは何でしょうか。それは、命をかけて福音を宣べ伝え、キリスト者としてどう生きるべきかを身をもって証したことです。パウロは、正しい福音を宣べ伝えることにより、常に、命の危険にさらされ続けていました。正しい福音とは、信仰のみによる救いです。しかし、福音を受け入れた多くの人々は、特にユダヤ人の改宗者は、信仰だけでなく、割礼を受けることと律法を守ることが救に必要であると教えていました。
パウロは、そのように救いに人間の行ないを加えた人々をキリストの十字架の敵として歩んでいる人々であると言っているのです。パウロ自身もかつて、復活されたイエス様と出会う前まで、キリストの十字架の敵として人々の先頭に立って歩んでいた人でした。ですから、正しい福音と間違った福音の違いが分かるのです。イエス様と出会う前、パウロが大切にしていたものは、この世において価値のあるものばかりでした。地位や名誉や財など、パウロはそれらのものを誇りとして大切にして生きていたのです。しかし、それらのものがいくらあっても、滅んでしまっては何の意味もありません。パウロはそのことに気づいたのです。この世のものは、必ず過ぎ去ります。朽ちることなく残るものは何一つありません。パウロは、そのような空しいものを求める人生から、救い出され、天に国籍をもつ者とされたことを喜び、その喜びに共に与る人々が起こされるように命をかけて、福音を宣べ伝えたのです。そして、迫害されても、信仰のみによる救いを宣べ伝え続け、殉教していくことを選びました。パウロは、たとえ肉体が滅びても、必ず復活させられるという信仰をもち、希望を最後までもち続けて生きた人でした。20、21節参照。
パウロは、私たちにも自分と同じように復活の希望をもって地上にいながらにして、天に国籍を持つ者として生きてもらいたいと心から願っています。私たちが天に国籍をもつ者であることを常に自覚して生きる時、私たちは地上においてキリスト者として輝き始めます。
「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」と心から信じる生き方が可能となるのです。この世と調子を合わせることなく、目に見えない神様を畏れつつ、義を貫くことは苦しみが伴います。だからと言って、この世に妥協し、不正を行い続けるなら正しいことを実行し、この世の塩としての役割を果たす機会を失うことになり、同時に終わりの日にそれらのことに対し、自分のしてきたことを問われることになるのです。
私たちは、信仰の先人たちが何を第一として地上の生涯を歩んだか聖書から学び続け、自分の生き方にその先輩たちの生き方を適用し、イエス様が再び来られる日に備える者でありたいと願います。

救いの根拠

「私は、神に信頼しています。

 それゆえ恐れません。

 人は私に何をなしえましょう。」 

                

                  f:id:koumi2016:20160627201619j:plain 詩篇56:11

 

 <救いの根拠>   ガラテヤ1:6~9

パウロは、多くの手紙を書き残しています。そして、パウロの手紙の書き出しには、必ずと言っていいほど感謝と賛美の言葉が記されています。しかし、ガラテヤ人への手紙には、のろいの言葉が記されているのです。8節参照。
キリスト者の口から、人をのろう言葉が出るとは、信じ難いことです。しかし、パウロが何に対して、怒りを覚えていたのかを知るならば、彼の怒りが正しいものであったことがわかります。
パウロが見過ごすことのできなかった事態とは、6節に書かれてあるように、ガラテヤの教会の人々がパウロの宣教した福音とは違う教えに心を奪われていたからです。パウロが宣教した福音とは、信仰のみによって救われるという内容でした。しかし、ガラテヤの教会の人々は、エルサレムから来たユダヤ教主義クリスチャンの影響を受け、信仰だけでなく、律法を守ることや割礼を受けることが救われることの条件であると信じるようになっていたからです。どうして、ガラテヤの教会の人々は、パウロの宣教した信仰のみによって救われるという福音から、律法や割礼を受けなければ救われないという教えに惑わされていってしまったのでしょうか。それは、私たちが権威に弱く、形式重視の教えに心が傾き易いものだからです。ガラテヤの教会の人々も、エルサレム教会という大きな後ろ盾のある先生たちが教えてくださることならば、間違いないと信じ込み、パウロが伝えた信仰のみによって救われるという福音から律法を守ることと割礼を受けることがなければ救われないという偽りの教えに影響を受けその教えを信じるようになっていました。しかし、この教えは、パウロにとって見過ごすことのできない重大な誤りのある教えであったため、いつもなら感謝や賛美を書き記してから用件にはいるところ、いきなりのろいの言葉を書き記さなければならないほど、パウロは驚きと共に怒りを覚えていました。信仰のみの救いに別のものを加えるものは、のろわれよと2度も繰り返し、警告していきました。
パウロがそれほど怒りを覚えた理由は、もし、救いに信仰以外のものを付け加えるならば、それはイエス・キリストの十字架の死が不十分であることを主張することになるからです。罪ある人間が、神様のなされたことに対し、それでは不十分だと言えると考えているとしたら、それこそ高慢な思いであり、そのような間違った教えを伝えた人々は、当然神様ののろいを受けることになります。ですから、私たちはイエス・キリストの十字架の贖いがどんなに完全なものであるかを聖書から学び続け、正しい福音の理解を持つ必要性があるのです。
神様は、イエス様の十字架の贖いを受け入れられたしるしとして、イエス様をよみがえらせてくださいました。私たちの救いの根拠は、イエス・キリストの十字架の贖いの死と復活にあります。この真理から反れることなく、いのちをかけて救ってくださったイエス様の十字架の死と復活を宣べ伝えてまいりましょう。